コロナ禍で窮地に追い込まれる大衆酒場。この1年を見ても、その波に抗えずいくつかの名店さえも姿を消しました。そんな状況を黙って見過ごせない。何かできないものか。そこで始まったのがこの企画です。
ただ、自分の力だけではあまりに無力。そこで助言をいただくべく、自分が(勝手に)師と仰ぐ酒場のカリスマのもとへ。その人こそ酒場詩人の吉田類氏です。事情を話すと、師は背中を押してくれます。当初は酒場ネームを自らにつけようと、自身で考えた20ほどの名前の候補を吉田類氏へ提案。その中からひとつを選んでもらおうとしましたが、吉田類氏はこういうのです。
「このなかには、ない。名前、つけるよ。「マッスグ」というのはどう?」
普段は食楽副編集長である吉田慎治が、酒場をめぐる時にだけ許された名前「吉田マッスグ」。ここでは、吉田マッスグが大衆酒場をテーマに、事実と妄想が交錯する酒場の物語を紹介していきます。
今回紹介するのは、湯島にある創業昭和24年の『岩手屋』。現在の店主で三代目になる店は、岩手の地酒、酔仙の樽酒を燗で供し、白木のカウンターに飲兵衛を迎え入れます。
その樽酒の魅力といえば、飲んだその時々で味わいが異なることです。たとえば、封を切ったばかりの樽酒は、まだ味わいが若く、優しい樽香が鼻孔くすぐります。一方で、四斗樽(夏場は二斗樽)が空になりかけた頃の、つまり封切りから時間の経った樽酒は、ほどよく熟した旨みと香りが一体となり、濃密な味わいに変化。同じ酒とは思えない、まさに一期一会の酒といえるのです。
肴は『岩手屋』の名の通り、「南部せんべい」や「ほや」、「まつも」といった岩手の名物など。奇をてらったメニューはありませんが、酒飲みをその気にさせる渋い料理は、どれも樽酒の旨さをしっかりと受け止めてくれるものばかり。白木のカウンターで樽酒とじっくり向き合いたくなる。これほど独酌が似合う酒場もそう多くはありません。
コロナ禍、めっきりと酒場に足を運ぶ機会が減った中で、緊急事態宣言明けに、真っ先に行きたいと思った酒場。深く考えもせずに、無意識的に頭に浮かんだ店。それがこの『岩手屋』でした。