東京・湯島の老舗酒場『岩手屋』で美酒に酔いしれる
創業72年になるこの店の暖簾を守るのは、3代目の内村敬さん。83歳の時に引退された先代の内村嘉男さんの甥にあたり3年前からこの店のカウンターに座っています。
先代の嘉男さんは、年齢のわりに体躯のしっかりした方でした。身長は180センチほどあり、横にある四斗樽の迫力のせいか、気がつきませんでしたが、ある時カウンターから出てきた嘉男さんの姿を見て、その迫力にびっくりしたものです。
嘉男さんはよく喋り、笑い、それでもどこかどっしりと構え、岩手屋という酒場に安堵感をもたらしていた主(あるじ)だったことを覚えています。
敬さんはそんな嘉男さんを手伝う形で10年以上前からカウンターに立っていました。嘉男さんと比べると華奢で、腰が低く、シャイ。目尻を下げて笑う表情が印象的で、嘉男さんとは異なる温もりをこの岩手屋にもたらしています。
それが、いまの気分に合っているのです。緊急事態宣言明けで、しゃべり倒すのもいい。店主や常連と久方ぶりの再会を喜び合うのもいい。酒を煽り、名物を食らって、酒席を謳歌したい気持ちもあります。
ただ、酒場へのブランクは如何ともし難かったのです。酒場のリハビリには、この店の温度感と時間軸がしっくりくる、と。いつもの檜の白木カウンターにとまり木を見つけ、敬さんにこう告げました。
「酔仙を燗でお願いします」
いつものように、敬さんは、四斗樽からチロリに注ぎ、錫の酒燗器へと移していきます。酒燗器の管のなかをぐるりと回り温められた酒。再びチロリへとたどり着くと、チロリに手をあて温度を確かめ、燗酒を徳利へと移してから、そっと目の前に差し出してくれました。『岩手屋』の名物である、『酔仙本醸造 樽酒』です。
酒を猪口へ注ぎ、口へ運びます。緊急事態宣言明けで、新しい樽酒の封をきったばかりなのでしょう、まだ香りが若いものの、樽香がふわりと踊り、米の旨み、甘みが、酒への、酒場への愛をじわじわと深めていくのがわかります。
あぁ、酒場の何と素晴らしいことか。これほどまで飲兵衛を優しく迎えてくれる酒と、空間。引き離されていた酒場との溝を、『岩手屋』の酒と時間がじわじわと満たしてくれるのでした。
●SHOP INFO
店名:岩手屋
住:東京都文京区湯島3-38-8
営:16:00~21:00(20:30L.O.)
休:日曜、祝日
●著者プロフィール
吉田マッスグ
食楽本誌副編集長を務め、日々全国のトップレストラン、生産者などを取材する傍ら、酒場めぐりをライフワークにする。『吉田類の酒場放浪記』(BS-TBS)の番組本などをはじめ、これまでに吉田類氏とともに全国の多くの酒場を巡ってきた。吉田マッスグは、師と仰ぐ吉田類氏が名付け親。