緊急事態宣言明けに湯島『岩手屋』に直行したワケ。吉田類が名付け親・吉田マッスグの酒場回想記(1)

東京・湯島の老舗酒場『岩手屋』で美酒に酔いしれる

「根三つ葉のおひたし」420円。酒を注文する度に供されるひたし豆などのつまみもいい
「根三つ葉のおひたし」420円。酒を注文する度に供されるひたし豆などのつまみもいい

 創業72年になるこの店の暖簾を守るのは、3代目の内村敬さん。83歳の時に引退された先代の内村嘉男さんの甥にあたり3年前からこの店のカウンターに座っています。

 先代の嘉男さんは、年齢のわりに体躯のしっかりした方でした。身長は180センチほどあり、横にある四斗樽の迫力のせいか、気がつきませんでしたが、ある時カウンターから出てきた嘉男さんの姿を見て、その迫力にびっくりしたものです。

 嘉男さんはよく喋り、笑い、それでもどこかどっしりと構え、岩手屋という酒場に安堵感をもたらしていた主(あるじ)だったことを覚えています。

先代の嘉男氏。敬氏はシャイな性格から、頑なにメディア出演を断わり続ける
先代の嘉男氏。敬氏はシャイな性格から、頑なにメディア出演を断わり続ける

 敬さんはそんな嘉男さんを手伝う形で10年以上前からカウンターに立っていました。嘉男さんと比べると華奢で、腰が低く、シャイ。目尻を下げて笑う表情が印象的で、嘉男さんとは異なる温もりをこの岩手屋にもたらしています。

 それが、いまの気分に合っているのです。緊急事態宣言明けで、しゃべり倒すのもいい。店主や常連と久方ぶりの再会を喜び合うのもいい。酒を煽り、名物を食らって、酒席を謳歌したい気持ちもあります。

 ただ、酒場へのブランクは如何ともし難かったのです。酒場のリハビリには、この店の温度感と時間軸がしっくりくる、と。いつもの檜の白木カウンターにとまり木を見つけ、敬さんにこう告げました。

「酔仙を燗でお願いします」

「南部せんべい」390円。これもまた不思議と樽酒との相性がいい
「南部せんべい」390円。これもまた不思議と樽酒との相性がいい

 いつものように、敬さんは、四斗樽からチロリに注ぎ、錫の酒燗器へと移していきます。酒燗器の管のなかをぐるりと回り温められた酒。再びチロリへとたどり着くと、チロリに手をあて温度を確かめ、燗酒を徳利へと移してから、そっと目の前に差し出してくれました。『岩手屋』の名物である、『酔仙本醸造 樽酒』です。

 酒を猪口へ注ぎ、口へ運びます。緊急事態宣言明けで、新しい樽酒の封をきったばかりなのでしょう、まだ香りが若いものの、樽香がふわりと踊り、米の旨み、甘みが、酒への、酒場への愛をじわじわと深めていくのがわかります。

久々の酒場。「酔仙本醸造 樽酒」770円と「サンマの塩焼き」690円の相性に酔いしれた
久々の酒場。「酔仙本醸造 樽酒」770円と「サンマの塩焼き」690円の相性に酔いしれた

 あぁ、酒場の何と素晴らしいことか。これほどまで飲兵衛を優しく迎えてくれる酒と、空間。引き離されていた酒場との溝を、『岩手屋』の酒と時間がじわじわと満たしてくれるのでした。

●SHOP INFO

岩手屋外観

店名:岩手屋

住:東京都文京区湯島3-38-8
営:16:00~21:00(20:30L.O.)
休:日曜、祝日

●著者プロフィール

吉田マッスグ
食楽本誌副編集長を務め、日々全国のトップレストラン、生産者などを取材する傍ら、酒場めぐりをライフワークにする。『吉田類の酒場放浪記』(BS-TBS)の番組本などをはじめ、これまでに吉田類氏とともに全国の多くの酒場を巡ってきた。吉田マッスグは、師と仰ぐ吉田類氏が名付け親。