ポテサラが厄介な本当の理由

我が家の場合、ポテトサラダは手作りしますが、家族は実はとくにポテサラにさしたる興味を持っていません。同じジャガイモ料理でも“肉じゃが”なら、「おっ」と興味を示して箸を勢いよく伸ばしますが、ポテサラにはその積極性はなく、ただ黙々と食べている。「だったら」と思って、惣菜コーナーで買ったことも何度かありますが、これまた全く興味なし。
ただ、1つだけわかったことは、手作りのポテサラは完食し、惣菜のほうは食べ残しがちということ。つまり、彼らはポテサラの存在自体に期待はしていないけど、手作り感を好む。つまり家庭の味を求めているでは? ということです。

恐怖の「ポテサラ・ジャッジ」とは
確かにポテサラは“肉じゃが”のようなどっしりした主役級の威厳はなく、あくまでも脇役。控えめな存在ではありますが、例えば外食でも一口食べて好きなタイプの味なら、多くの人は笑顔になります。白くてポテッとしていて自分好み。思わずゾッコン。だから、好みのポテサラを作ってくれる店や人(お母さんやお嫁さん、彼女など)は“いい店”、“いい人”だと判断しがちです。
結論として、ポテサラは存在感がないわりに、作り手にとっては手間暇がかかる料理であり、食べる側にとっては知らず知らずのうちに相手との相性をジャッジできてしまう。だから非常に厄介なのです。大げさですが、考えなしに適当にポテサラに関わると、人間性を完全否定される危険性すら潜んでいる料理と言えなくもないでしょう。

ということは、ポテサラを考えなしに作るのも、スーパーで買うのも危険。つまり、“相手の好みのポテサラをリサーチすること”が大事になってきます。ジャガイモの蒸し加減&潰し具合、具材の好み、マヨネーズの量などを全方位的に研究し、食べる人にとって理想のポテサラを作る、もしくは理想のポテサラを探し回って買う、あるいは食べる側が想像もしないような圧巻の極うまポテサラを創る……とか。

逆に言えば、提供側も、相手を推し量る“踏み絵”としてポテサラを利用できるということです。たとえば昔、こういうことがありました。「頑張って作ってくれたらなんでもいい」と当時付き合っていた相手に言われ、自分の理想とするなめらかなポテサラを丁寧に裏ごしして出したら「ゴロゴロしたタイプが好き」と言われ、あまり食べてもらえませんでした。
ここで重要なのは、なめらかタイプかゴロゴロタイプか、ということではありません。「なんでもいい」と言ったのに、結局、否定する人、ということです。こういう人とは縁がないな、と作り手側も冷徹に判断を下せる、それがポテサラというものなのです。怖い!
というわけで、「ポテサラ論」はここまでにして、最後に、筆者が家族のポテサラの好みをリサーチし、戦略を考えた結果、“超手抜き”の手作りポテサラを作ることに成功。何も知らぬ家族はポテサラが美味しくなったと喜んで食べているので、参考までにご紹介しましょう。