マッキー牧元の記憶の三ツ星食堂|心のご馳走だった東京ラーメン『温州軒』

マッキー牧元の【記憶の三ツ星食堂04】心のご馳走だった東京ラーメン|「温州軒」
食楽web

老舗から新店まで、新たな味と人との出会いを求め古今東西を駆け巡るマッキー牧元さん。そんなタベアルキストが、現在までに出会ってきたさまざまな店や料理の、今は味わうことが難しい“幻の味”の記憶をひもとく。

 今から40年前に、レコード会社に入社し、初めて先輩に連れて行かれたマスコミが、四谷の文化放送だった。まだ、みのもんたさんが社員でしゃべっていた時代である。

 早速担当となり、日参した。

「あの番組とこの番組のゲストとってこい!とらなきゃ帰ってこなくていいぞ!!」

 鬼軍曹だった宣伝課長に命じられて、文化放送に行っては、頭を下げに下げた。

 中でも昼の人気番組をやっていた名物ディレクターHさんが、一番難関だった。

 裾の広がったズボンに、高い襟のシャツ、セーターを羽織ってサングラスという、世のディレクター像をそのまま形にしたような方だったが、とにかく話しを聞いてもらえない。

 デスクに座ったHさんに挨拶しても無視され。レコードを差し出しても、見向きもされない。

 これでどうやってゲストをとるのか。

 ひたすら粘るしかないと、デスクの横で、無視され続けてもかまわず、宣伝文句をしゃべっていた。見られていなくても、ひたすら頭を下げた。

 そうしたらある日。

「おめえ、うるせえんだよ。二度と俺のとこに来るな!!」と、怒鳴られた。

 文化放送の目の前にあったラーメン屋が、「温州軒」である。

 普通の、いたって普通の東京ラーメンが好きで、文化放送へ行くたびに食べていた。

 醤油味のスープに縮れた麺、味が染みたシナチクに、色の薄い煮豚、海苔にナルト、葱という、オーソドックスな「支那そば」である。

 煮干出汁のきいたスープは、怒鳴られ、無視され、冷たく、硬くなった僕の心をほぐしてくれ、一心不乱に細い縮れ麺をたぐれば、次第にいやなことを忘れるのだった。

 Hさんに怒鳴られたその日は、特にすさんでいて、ほかの人にプロモーションをする気にもなれず、まっしぐらに温州軒に向かった。

 いやなことは忘れよう。

 そう、思って食べ始めたラーメンだったが、食べ終えたとき「そういえばHさん、初めて僕の存在を認めてくれたんだ」と、ちょっぴり嬉しくなる自分がいた。

 あのラーメンは、心のご馳走でもあったのかもしれない。

 それからしばらく経って、突然Hさんから「おいそば食いに行くぞ」と誘われ、カウンターに並んで食べた。

 仕事もくれた。

 あのラーメン、いや支那そばの味は忘れない。

 やがてえらくなり、文化放送から足が遠のき、文化放送社屋が、浜町町に移転しますとの案内がきた。

 そのとき真っ先に思い浮かべたのが、温州軒である。

 文化放送社員、関係者、来訪者が客の90%を占める温州軒はどうなるのか。

 社屋移転後、のぞきに行ったら、店はなかった。

 思い出の味というけど、思い出にはしたくない味だったなあ。

 自分の不義理を反省した。

 それから数年経って四谷を歩いていたら、別の場所に、「温州軒」があるではないか。たまたま店名が同じこともあるかも知れぬと、中をのぞいてみたら懐かしい顔が見える。思わず暖簾をくぐった。

「いらっしゃいっ」。

 あの頃はぶっきらぼうに仕事をしていた息子さんの愛想がいい。

「あの文化放送前の店ですよね」

「ああそうだよ。お客さん見覚えあるわ。よく来てくれてたもんね」

「はい。懐かしいなあ。いつからですか?」

「二年間くらい休んでたからね」

 ラーメンは、うますぎないおいしさで、これが本来の東京ラーメンですと言いたげな、涼しい顔をしている。

 醤油も味の素も鶏がらも煮干も主張しない丸い味である。

 学校帰りに百円玉握り締めて食べた、贅沢な味である。

 ラーメンはこれでいい。

 普通の、ごく普通のうまさを守り続けることに、どれだけ心を配することか。

 Hさんは、どうしているのかなあ。

 しなちくを齧りながら、嬉しくなり、不覚にも涙がでた。涙で少ししょっぱくなったスープを飲み干し、ラーメンはこれでいいと、もう一度心の中でつぶやいて箸をおく。

 思いが詰まったラーメンは、昔と寸分変わらぬ優しさでいてくれた。

〈筆者註〉
 その後温州軒は店を畳まれました。1965(昭和40)年創業の同店は、2006年7月に文化放送が移転しても旧本社社屋の前で営業を続けた。しかし2005年3月末に一時閉店。2007年5月に2代目店主の友部政義さんが、別の場所で再開。2009年10月に閉店された。「支那そば」550円だった。

イラスト◎死後くん

●著者プロフィール

マッキー牧元

マッキー牧元

タベアルキスト。『味の手帖』編集主幹。食と作り手への愛が溢れた文章と肉1kgをたいらげる喰いっぷりにファン多数。立ち食い蕎麦からフレンチ、割烹まで、守備範囲は広い。近頃は本誌『食楽』誌上で名料理人ぶりも披露している。