連載掌編小説【月とコーヒー】第十八話 つづきはまた明日

吉田篤弘

連載掌編小説【月とコーヒー】第十八話 つづきはまた明日
食楽web

〈ツアー〉を申し込んだのは彼の姉でした。姉は彼が休みの日に家にとじこもって本ばかり読んでいるのを憂い、彼に内緒で、「映画鑑賞旅行」に応募したのです。大変な倍率でした。しかし、その難関をくぐりぬけて、見事、当選したわけです。

 チケットが彼のもとに送られてくると、それは昔風の意匠で、用紙もインクもざらっとして、映画のタイトルはシルクスクリーンで刷られていました。

『狼は月を見た』

 これが今回の〈ツアー〉で上映される映画のタイトルです。

 一、古い映画であるということ。

 二、モノクロ作品であること。

 三、ヨーロッパの、とある小さな国でつくられた映画であること。

 以上がチケットと共に鑑賞者に伝えられたわずかな情報で、これ以外のことは何ひとつわかりません。

 ただ、基本的な規則があり、上映される映画は、紛失してしまったもの、あるいは意図的に破棄されたものに限られていました。そうしたいわゆる「失われたはずのフィルム」が、どこからか発掘され、〈ツアー〉では発掘後の世界初上映が行われるのでした。

〈ツアー〉というのは、この発見された映画を鑑賞するための小さな旅行のことです。チケットは映画の鑑賞券と旅行券を兼ねており、三泊四日の宿泊券もセットされています。

 こうしたことは、この〈ツアー〉が世界に先駆けて考案したもので、映画を鑑賞するために旅行をし、おいしい食事をしたり、街での愉しみを交えたりして、少しずつ三夜に分けて観ていくという趣向です。

 具体的に云うと、三つの地方都市をまわり、それぞれの街にある、あらかじめ指定された映画館で、夜の一時間ほど映画を観るのです。その他の時間の過ごし方は鑑賞者の自由で、つまり、自由な旅をしながら、夜の一時間だけ映画を観る。およそ三時間の映画を、三つの街で連続ドラマのように観ていくわけです。



 彼は郵便局の仕事を休み、小さな旅行鞄に着替えの衣服と読みかけの本を詰めて旅立ちました。チケットに示された午後の最初の特急列車に乗り込み、二時間ほどかけてD町に到着しましたが、彼は列車の窓から外の風景を一度も見ることなく、読みかけの本を読みつづけていました。

 駅に到着すると、彼はまっすぐ指定されたホテルに向かい、チェックインを済ませて三階の部屋にはいると、姉から贈られた腕時計をじっと見つめて時間を確認しました。映画の上映まで、あと四時間あります。

 窓にさがったカーテンの隙間から外の様子を見おろすと、にぎやかな街には多彩な服を着た人たちが行き交っていました。

 彼はカーテンを閉じ、耳の奥で姉の声が再生されるのを聞きました。

(いい? 街に出て旅を楽しまないと)

 彼はいま一度、カーテンの隙間から街路を眺め、なるべく人のいないところを見きわめると、読みかけの本をコートのポケットに入れてホテルを出ました。彼は郵便局で働いてきた経験から、街を把握するのが得意で、窓から見た印象だけで、人のいないところの見当がつきました。

 そのあたりは大きな通りから二筋離れていて、商店がまばらで、コーヒーを飲ませるところも地味なつくりでした。彼はそのコーヒー店のカウンター席に座り、メニューを吟味すると、いちばん安いコーヒーに、シチューとロールパンがセットされたものを注文しました。ひと息つくと、カウンターの隅に座っている先客に気づき、ちらりとそちらを見て、ポケットから本を取り出しました。

 先客は彼と同じ年ごろの青年で、やはりカウンターにもたれて本に読みふけっていたのですが、不意に本から顔を上げて彼の方を見ると、次の瞬間、お互いに相手の読んでいる本と自分の読んでいる本が同じものであることに気づきました。

(ふうん)とそれぞれに思いました。しかも、先客は彼が頼んだシチューのセットとコーヒーをすでに頼んでいて、まったくの偶然なのか、それとも趣味嗜好が似ているのか、なんとなく居心地がいいような悪いような、妙な心持ちになりました。



 映画はタイトルからあらかた予測してはいたのですが、若い雄の狼が主人公で、群れから離れて、ただ一匹で荒野や森林地帯をさまよう旅に出るところから始まりました。放浪の途中で大きな川に行く手をはばまれ、途方に暮れた場面で、一日目の上映は終わりました。つづきはまた明日です。

 館内に明かりがつき、それとなく彼が客席を見渡していると、自分が座っていた列の端に、コーヒー店で見かけた「先客」が座っているのに気づきました。この上映は〈ツアー〉の参加者だけに向けた特別なものでしたから、「先客」もまた難関をくぐり抜けてチケットを手に入れたのでしょう。

「先客」もまた彼に気づき、用心深そうな視線を向けるその様子が、

(なんだか、自分に似ている)

 と彼はそう思いました。