連載掌編小説【月とコーヒー】第十七話 熊の父親

吉田篤弘

【月とコーヒー】第十七話 熊の父親
食楽web

 熊の父親が旗の店を営んでいることは、皆、知っていたのでした。しかし、その店というのが実際のところ、商店街のどこにあるのか、どのような店なのか、いえ、そんなことより、なぜ、彼が皆から「熊の父親」と呼ばれているのか、何ひとつ判然としていないのでした。

 ただ、熊の父親はいつのまにか、東商店街にその名も〈旗屋〉という店を登録し、新聞の折り込み広告で、

「どんな旗でもつくります」

 と宣伝していました。広告に住所はなく、電話番号があるばかりで、その番号に電話をかけてみると、「もしもし」と、いかにも熊の父親といった声色で応対するのでした。

「こちらは〈旗屋〉でございます。どんな旗をつくりたいのでしょうか?」

 いきなり、単刀直入に訊いてくるのでした。

「ええと、あの──」

 電話をかけた依頼者が、どんな旗であるか説明しようとすると、

「お話は五丁目の空き地でいたしましょう」

 依頼者の話をさえぎるように、熊の父親は低く、くぐもった声で云うのでした。

 五丁目の空き地というのは、東商店街の近くに住んでいれば誰もが知っている広大な空き地です。もとは小学校が建っていたのですが、いつからか町に子供たちがいなくなり、ある日突然、更地になってしまったのです。

「荒野──」

 と誰かが云いました。

「あそこは空き地というより荒野だよ。いつも風が吹き荒れて、木の一本も生えやしない」

 そのとおりでした。そんな荒野の片隅に熊の父親は、「ここが〈旗屋〉の受付です」と書いた旗を掲げ、その白い小さな旗が荒野に吹く風に音をたてて、はためいていました。

「あの──」

 と依頼人が訪ねてきます。

「電話をした者です。旗を注文したいのですが、ここでいいのでしょうか」
「無論、そうです」

 熊の父親は焦げ茶色のジャケットを着て黒い帽子をかぶり、古びた黒ぶち眼鏡をかけた本物の紳士でした。

「熊──ではないのですね」と依頼人が確かめますと、
「ええ。私は熊ではなく、熊の父親です」

 少々、憤慨したように熊の父親は答えました。

「こんなところに、お店があるなんて驚きました」

 依頼人が周囲の荒野を見わたしながら云いますと、

「いえ、ここは店ではなく受付なのです」

 熊の父親は、さらに憤慨して云いました。 

「見ればわかるでしょう。ここには旗をつくる道具も机も材料もない。そういったものはすべて商店街の店にあるのです」

 かならずそう説明しましたが、実際には商店街に旗の店はなく、これまでに熊の父親に旗を依頼した誰もが、

「荒野の受付には行ったけれど、店には行かなかったなぁ」

 と証言するのでした。

「でも、そんなことは、どうでもいいんだ。とにかく、できあがった旗が素晴らしかったからね」

 誰もが旗の出来栄えを賞賛しました。そのほとんどは商店街に軒を連ねる店々の旗なのですが、最初に酒屋の大将が熊の父親に自分の店の旗をつくってもらい、それがあまりに素晴らしかったので、米屋も魚屋も肉屋も花屋も本屋もクリーニング屋も、皆、競い合うように熊の父親に旗をつくってもらいました。

 意匠はそれぞれでしたが、「われわれは同じ東商店街で商う仲間である」と、思わずそんな意識が芽生えてしまうような、微妙な統一感がありました。



 この東商店街に、あたらしく店を開くべく、一人の男があらわれました。山田という名のひどく痩せた男で、無口で愛想もなく、家族も友人もいない、さみしい男でした。

 山田は大変な「雨男」で、アパートの部屋にいるときはいいのですが、ひとたび、どこかへ出かけて行くと、その先々でかならず恐ろしいばかりの雨が降るのです。

 その自分の背負い込んだ雨によって、山田は家族を失い、友人を失い、自らの希望すらも失ってしまいました。まずは、いいところのない山田なのですが、彼はしかし青年のころより、非常に美味なる焼売をつくる手技を持っていました。誰に教わったわけでもありません。山田は焼売というものを、さまざまな面から好み、もちろん食べ物としても申し分ないと思うのですが、焼売というのはまず蒸すもので、蒸しあがったときの湯気であるとか、香りであるとか、顔に湯気を浴びて眼鏡がくもる感じであるとか、そうしたものをすべて愛おしく感じていました。