【月とコーヒー】第十六話 青いインクの話のつづき

吉田篤弘

【月とコーヒー】第十六話 青いインクの話のつづき
食楽web

 自分はいま、長い物語の途中を歩んでいるところなのだと、戸島はこれまでにも何度かそう思ったことがありました。

 肩に提げてきた携帯式魔法瓶のコーヒーを、気持ちを鎮めるために口にすると、迷宮を思わせる路地の中で、さて、わたしが歩んでいくこの物語は、この先どうなるのだろう、と深呼吸をひとつしました。

 彼女は何か困難なことや悲しいことに出会うと、ひとまず深呼吸をするのです。彼女はそれを父親から教わりました。

「私は若いころ、とても恐ろしく悲しい経験をしたのだ。一度や二度ではない。そういうとき、まずは深呼吸をした。私はそれを母に教えられた。お前のおばあさんだよ」

 目を閉じると、父親の声がよみがえりました。おかしなことです。というのも、戸島はいつからか父親の顔を正確に思い出すことが出来ないのです。どうにか思い出そうとしても、顔の中のどこか一箇所が必ずぼんやりとかすんでしまいます。

 しかし、声はくっきりと鮮やかに思い出され、父親が話してくれたいくつもの言葉と共に、声はいますぐそこで話されたかのように彼女の耳に再生されました。

「お前のおじいさんは大変な無口だったんだ。というより、ほとんど喋らなかった。それで、私は父親の声を覚えていない。とても残念に思う。だから、私はお前にたくさん話してやろうと思っている。私がこの世からいなくなっても、この声がお前の耳の中にしっかり残るよう──」

 まさにそのとおりになりました。

「おじいさんが無口だったせいで、母は──お前のおばあさんは、とても苦労したのだ。なにしろ、意思の疎通というものが出来なかったからね。そういうとき──孤独でつらいとき、母は深呼吸をすることで気持ちを落ち着けた。日に何度も深呼吸をしたと云っていたよ。しかし、それでも父の無口はなおらない。もしかして、病気なのかもしれないと思い、喉の中を医者に診てもらったが、特に問題はなかった。それに、父はまったく喋らなかったわけではなく、ときどき思い出したように、『白いパンを食べたい』と云ったそうだ」

 戸島はその言葉──父親の声を通して聞こえてくる祖父の言葉を、ときどき誰かに耳打ちされるようにして聞くのです。

「白いパンを食べたい」──と。

 いまもそうでした。父親が遺した地図を広げ、戸島はその言葉を聞きながら、路地の奥を見据えていました。

 地図によれば、目指しているインク工場はもうすぐそこのはずです。しかし、とても「工場」と呼べるような建物は見当たりませんでした。そのうえ、町はおそろしいほど静まり返り、白い月が映える青空の高いところを、名前も知らない小さな鳥が飛んで行くその羽ばたきが聞こえるようでした。

「空が青いのは海が青いからだ」

 父親がそう云っていたのが思い出されました。では、どうして海は青いのか──戸島はそこのところも訊いておくべきだったと空を見上げて首を振りました。

 どうしてなのか──。

 理由はわかりませんが、戸島はとにかく青い色に惹かれるのです。もし、万年筆のインクにブルーやブルーブラックがなかったら、自分は万年筆売場で働くこともなかっただろう。ましてや、こうして万年筆のインクをつくっている工場を訪ねてみようとは思わない──祖父の声に応えるように、彼女はそうつぶやきました。



 戸島がそうしてインク工場を探し歩いているとき、当の工場でただひとり働いている山崎は、休憩がてら、母に手紙を書いているところでした。定期的に送られてくる林檎の礼をまずは書き、それから、いまいちど念を押すように、

「僕は毎日、インクをつくって暮らしています」

 と書きました。

「そのインクと新しいぴかぴかの万年筆をこのあいだ小包で送りました。でも、林檎と一緒に送られてくる便箋の文字は──母上さま──その文字はあきらかにボールペンで書かれたものです。どうか、一度でいいですから、僕がつくったインクを使ってみてください。このとおり、いまこうして書いているこの文字の、このインクがそうです──」

 そこまで書いて、山崎は便箋を破り取り、丸めてゴミ箱の中に放り投げて頭を掻きました。そして、自分はこんな路地の奥で誰にも知られることなく一生を送るのだろうか、と気持ちが暗い方へ引きずられていくのを自覚していました。

(大体、自分のインクを使っている人がこの世にいるのだろうか。いや、母でさえ使わないというのに、まったくの赤の他人が、自分のような者がつくったインクを使ってくれると考える方が間違っている──)

 山崎がそうつぶやいたとき、不意をつくように、工場の入口の呼び鈴を鳴らす音が聞こえました。

「誰だろう──」

 山崎は首をひねりながら「はい」と呼び鈴に応えました。



 つい昨日、送られてきたばかりなのに、一体、どうしたことだろう?

 呼び鈴はいつもの配送の人で、母親からまた大量に林檎が送られてきたのです。配送の人まで、「また林檎ですか」とけだるそうに云いました。それほどの量なのです。

 もう置くところがありません。ただでさえ小さな工場に林檎が山と積まれていました。

「参ったな──」

 山崎が母親から送られてきた箱をあけると、箱の大きさになど関係なく、無限とも思えるほど、次から次へと赤い林檎があふれ出てきました。

 それは山崎の青く染まった手を赤く染めなおすのではないかという勢いです。

 山崎はあふれ出る林檎の中に母からの封書を見つけ、赤い氾濫からすくいあげるように白い手紙を手にしました。と同時に、

「ああ」

 と、おかしな声をあげて立ちすくみました。

 封筒のおもてに書かれた自分の名前が、まぎれもなく山崎のつくった青いインクで書かれていたのです。

 山崎は箱からあふれ出る林檎もそっちのけで、餌に食らいついた青い魚のように母からの手紙をひらいて読みました。

(拝啓──)

 便箋に並ぶ母の字も、山崎が送った万年筆を使って、隅から隅まで青いインクで綴られていました。

(このあいだ、いつもの林檎を送ったあと、母は失敗したと気づきました。せっかく、お前のつくったインクと万年筆まで送ってもらったのに、母は机の上にころがっていたボールペンで手紙を書いてしまった。郵便局から帰るときに気づいて、それでまたこうしてあらためて手紙を書いています。すまなかったね)

 山崎はその整然とした文字に驚嘆しました。いつものボールペンで書かれた母の字とは、まったく違う字なのです。なんというか、初めて母の地声に触れたようで、文面は相変わらずなのに、思わず居住まいを正していました。

(母は決してお前の仕事を否定してはいません。ただ、このごろはお父さんも体がしんどそうで、こうしていつまで林檎づくりをつづけられるか心配です。これまで一度も手紙に書かなかったことですが、本当をいうと、お前に林檎づくりを手伝ってほしい。そうしたらどんなにいいだろう、と思います)

 山崎は字を追うのではなく、間違いなくすぐそばに母親の声を聞いていました。