【月とコーヒー】第十五話 美しい星に還る人

吉田篤弘

【月とコーヒー】第十五話 美しい星に還る人
食楽web

〈一日目〉

 わずか四日間の滞在なのでした。それは彼女の星の決まりで、彼女というのは地球から遠く離れた星から「見聞」にやって来たリルという名の女性です。

 その星に住む彼らや彼女たちには、地球の人間と同じく男性と女性があり、顔つきや姿かたちもきわめてよく似ていました。

「遠いところ、お疲れさまでした」

〈到着ゲート〉で、リルを迎えたのはカシワギという青年です。

「あの」とリルはあたりを見まわしながら小さな声でカシワギに云いました。彼女の星では、この数年の「見聞」によって、すっかり、地球の言葉をマスターしている人が数多くいるのでした。彼女もそのひとりです。

「あの、わたしじつは──ピンチ・ヒッターというんでしょうか──」
「ピンチ・ヒッター?」

 カシワギは首をひねりました。何か別の言葉と間違えているのではないか、と思ったのです。

「ええ」とリルは頷きました。「代打というか──じつを云うと、代わりに来たのです。本当は別の女の子が来る予定で」
「ああ、そういうことですか」とカシワギは理解しました。「ということは──」
「はい。ほとんど予習をせずに来てしまいました。ですから、わたし、地球の言葉はひととおり話せるのですが、言葉以外のことはあまり知らないのです。いわば、新米です」

 カシワギは彼女の「新米」という表現に笑い出しそうになりました。でも、考えてみれば、自分もまさにそうなのです。

「僕もですよ」とカシワギは包み隠さず云いました。「僕もじつは、ガイドの仕事を始めてまだ間もないんです。リルさんのガイドも、本当は僕の先輩が担当する予定だったんですが、急病で入院してしまいまして、それで急遽、僕が担当することになったんです」
「そうでしたか」とリルはカシワギの目をまっすぐに見ました。カシワギは頬を赤らめ、「すみません」と、あらかじめ謝っておきました。「そんなわけなので、僕の方こそ新米なんです。ですから、充分なガイドができないかもしれません」
「いえ、どうぞお気になさらず」リルは顔の前で手を振りました。「正直に云いますと、この星のことはあまり興味がなく──だから、わたし、本当に何も知らないのです。でも、到着してすぐに驚きました。この空の青さと雲の白さです。このような青と白のもとで生活をしているなんて、どんなに素晴らしいことでしょう。さっそく感激しました」
「そうですか」とカシワギはゲートを出て空を見上げました。

(昔の空はもっと青くて、雲はもっと白かったんです)──そう云おうとしましたが、やめておきました。「余計なことは云わないように」と上から重々注意されているのです。

〈二日目〉

 リルは地球のことをほとんど知らないようでしたが、カシワギは自ら望んでガイドの仕事に就いたわけですから、彼女が住んでいる星のことは、ある程度、マスターしていました。カシワギは未経験でしたが、先輩たちの何人かは、実際に、リルの星へ「見聞」に出向いていました。

「美しい星だよ」

 先輩の誰もが、口を揃えて云いました。

「言葉にならないね。あればかりは、実際に行ってみないことには──」

 そう云ったきり言葉を詰まらせました。

 その「美しさ」については立体映像などによって、カシワギも少しは知っていました。それで彼は、一体、どんなところへ彼女をガイドすればいいのか迷っていたのです。

「電車というものに乗りたいのです」

 宿舎に迎えに行くと、リルは真っ先にそう云いました。

「わたしたちの星には電車はありません。移動するときは、皆、ひとりきりです」

 カシワギは彼女を宿舎のそばの駅へ連れて行き、「これはこの街で最もポピュラーな路線です」と説明しながら、〈中央環状線〉に乗り込みました。

「あれはなんですか? みんな、何を見ているのですか」とリルは車内の乗客をそれとなく指差しながらカシワギに訊きました。
「あれは携帯受信機です」とカシワギは答えました。「電網機関を通じて情報が得られるんです」
「それは、どんな情報でしょう?」
「そう──」とカシワギはしばし考えました。「あらゆる情報です。天気やニュースといったものから政治や芸能のことまで。ただ、ああして皆が夢中になっているのは個人的な情報の交換です」
「個人的な?」
「ええ。今日、朝食に何を食べたとか──」
「わたしは今朝、宿舎でトーストとコーヒーをいただきました。大変に美味しいものでした。そのあとにいただいたバナナとストロベリーも素晴らしく、色も味も申し分ないものでした」
「そうでしたか」

 カシワギはそれを聞き、(それならば)と、昼食は予定どおり〈いたりあ食堂〉へ彼女を連れて行きました。

「ここはですね」とカシワギは解説しました。「日本的イタリア料理の店なんです」
「それはつまり」──リルはじつに勘のいい異星人でした。「つまり、ふたつの料理がミックスされているということですか」
「いや、そうではなく」カシワギは首を横に振りました。「まだ本格的なイタリア料理店が日本に少なかったころ、アメリカ経由で伝わってきたものを日本風に定着させたのが、このナポリタンというものです。ナポリタンのナポリはイタリアの都市の名前ですが、ナポリにナポリタンはありません」

 説明しながら、(やはりわかりにくかったか)とカシワギは後悔していました。やはり、ここは順当に鮨か天ぷらを選ぶべきだった。いくら自分の好物だからと云って、ナポリタンのような複雑な背景を持った食べ物を選ぶべきではなかった──カシワギの後悔は彼女が白い皿にのってあらわれたナポリタンを口に運んだときに決定的なものになりました。

 彼女は途端に無口になり、眉をひそめて小さく首を振ると、ついには天を仰ぎ、最後まで「美味しい」とか「素晴らしい」といった感想は述べませんでした。