【月とコーヒー】第十三話 鳴らないオルゴール

吉田篤弘

【月とコーヒー】第十三話 鳴らないオルゴール
食楽web

 むかしの話で恐縮なのですが、街からずいぶんと離れた小さな村のはずれに、タクトという名の男が住んでおりました。この男、生まれながらの人間嫌いで、なるべく、人の住んでいない静かなところで暮らすことを望んでおりました。

 職業はオルゴールを直す仕事で、毎日、コツコツとつづけるのが自分の性格に合っていましたし、何より静かな環境を必要とする仕事であるのが気に入っていたのです。

 オルゴールを直してほしいという依頼は、毎月ちょうどよくありました。彼のようにオルゴールだけを専門としている修理屋が他にいなかったからでしょう。隣村から、「直してほしい」とはるばる訪ねてくる者もありましたし、聞いたこともない遠いところから郵便で送られてくることもありました。包みをひらくと壊れたオルゴールがあらわれ、「あなたのような人は大変めずらしい。オルゴールだけを直しつづけているとは、なんと素晴らしいことでしょう」と心のこもった手紙が添えられていることもありました。

 しかし、タクトは遠くからわざわざやってきた客人に対しても、心のこもった励ましの手紙をくれるような人に対しても、本当の意味で心をひらくことはありませんでした。

「そうですか」「わかりました」「一週間で直します」「ありがとう」

 話す言葉はその程度で、なにしろ、静かであることを第一に望んでいましたから、彼にとっては、自分の話す声もまた静けさの妨げとなるのです。

 このような彼でありましたが、ただ一人だけ、一緒にいると気持ちが落ち着く女性がいて、その人はミントという名前で、彼女もまたタクトにオルゴールの修理を依頼しているのでした。

 ただ、どうしたことでしょう、大抵のオルゴールは一週間もあれば直してしまうのに、ミントのオルゴールだけはいっこうに直らないのです。他のオルゴールを直しながら、夜の一番静かな時間にミントのオルゴールを直す作業をつづけていたのですが、どうしても直りません。直らないということは、つまり音が出ないということです。

 タクトは毎晩、腕を組んで、どうして直らないのかと考えました。

 直せないはずはない。ということは、直そうという意志が自分にないのか。どうしてだろう? どうして、直したくない?

 それはもしかして、直してしまったら、それきり彼女に会えなくなってしまうからだろうか──そんな気もする。

 しかし、そんなことではよくないのだ。自分はひたすら黙々とオルゴールを直しつづける人生を選んだのだし、自分の思いが邪魔をして直せないというのは一番よくない。

 しかし、どうしたら直るのだ?

 彼はあまりに考えすぎて、考えることに疲れてしまうと、コーヒーをいれてパンを焼きなおし、黒い木べらで黄色い粒入りマスタードを塗って食べました。

 タクトはそのマスタードを塗ったパンが何よりの好物なのです。それさえ食べていれば他のものは必要なく、実際、彼は来る日も来る日もマスタードを塗ったパンだけを食べつづけてきました。朝も昼も夜もです。

 ミントは一週間に一度、歩いて三十分ほど離れた自分の家からタクトの様子を見にくるのですが、自分のオルゴールはいつまでたっても直らず、そのうえ、タクトは無口でほとんど物を云いません。けれども、ミントもまたタクトの仕事部屋で静かな時間を過ごしていると、どういうものか妙に心が落ち着いてくるのでした。何がどうと訊かれても答えられませんが、どことなく、彼に魅かれるところがあるのです。

 ただ、彼が常にマスタードを塗ったパンだけを食べていることは感心しませんでした。それでミントは、一週間に一度、タクトの小屋を訪ね、自分の畑で収穫した野菜を酢漬けにしたものと、街から売りにくる一番安い骨付きハムを持参するのでした。

「同じものばかりじゃなく、いろいろなものを食べないと体によくないです」

 ミントが静かな声でそう云うと、タクトは「わかりました」と素直に頷き、その日ばかりはマスタードを塗ったパンの上にハムをのせて食し、小皿に盛った野菜の酢漬けをおいしくいただきました。かならず、ミントも一緒に同じものを食べ、ひとまずは「よかった」と彼女はそう思うのでしたが、毎週毎週、同じものを食べていると、さすがに飽きてきます。

「他のものを食べてみたいと思わないのですか?」

 タクトにそう訊いてみると、彼は首を横に振り、

「ぼくはこれで充分なのです」

 小さな声でそう答えるのみでした。