連載掌編小説【月とコーヒー】第十話 カマンザの朝食

吉田篤弘

連載掌編小説【月とコーヒー】第十話 カマンザの朝食
食楽web

 カマンザは男のような女のひとで、とても怖い思いをして、ひとりだけ生きのこったのです。あれから十数年が経ち、いまは町はずれで帽子をつくって生計をたてています。

 朝は六時に起き、やかんでお湯を沸かすと、白湯を一杯だけいただき、それで朝の食事は終わりです。

 昼には〈よくできた食パン〉を一枚、赤いジャムを塗っていただきます。

〈よくできた食パン〉というのは、カマンザの家から歩いて十五分ほどのところにある〈いいパン屋〉という名前の店から買ってくるもので、その店のパンはどれも〈よくできたロールパン〉であるとか〈よくできたバゲット〉などと値札に書いてあります。ですが、〈うまくいかなかったクロワッサン〉という失敗したパンが販売されることもあり、これは〈よくできたパン〉の、じつに四分の一の値段で店に並ぶのです。

 カマンザはいつでもお金がありませんでしたから、本当はこの失敗したパンを購入したいのです。しかし、この世の中には同じようなことを考える者が最低でも二人はいて、この場合においても、二人の女がカマンザと同じ考えを持っていました。

 すなわち、失敗したパンを店に並べる時間に、どこからともなく風のようにあらわれ、ガラスケースの中にひとつふたつと並べられるのを意地の悪い鷹のような目を光らせて狙っているのです。

 カマンザはいつも出遅れました。「そろそろいいのではないか」とパン屋へ出向くと、かならず、鷹の目の女が二人、店内にいて、そこへ、毎日くりかえされるお芝居のように店主があらわれて、悲しげな顔で失敗したパンを並べます。鷹の目の女二人は並べられたパンを根こそぎ買ってゆき、それで仕方なくカマンザは失敗したパンではなく、〈よくできたパン〉を購入するのです。

 パンは失敗していなくても、カマンザのもくろみは失敗です。

 しかし、このようなことでくよくよしてはいけない、とカマンザは思います。毎日、失敗するので、毎日、思います。なにしろ、自分は生きのこった者であり、このくらいの失敗は何ほどのことであるか、と思うのです。



 そうしたある日のこと、カマンザは郵便局で切手と葉書を選んでいるときに大変なことを聞いてしまいました。局員の若い女が二人、小さな声でひそひそと話をしていたのです。ちょうど風向きの具合がよかったのでしょう、すぐそばで話しているかのようにカマンザの耳に二人の会話が飛び込んできました。

「ねぇ、知ってる? ビバリダイの駅をおりて、しばらく歩くと、山ぎわの古い家でおいしい朝食が食べられるって」
「ビバリダイ?」
「貨物列車の駅だそうよ。だから、普通のお客は行けないんだって。でもね、その朝食は、この世でいちばんおいしい朝食なんだとか──」

 そこまででした。そこで風向きが変わり、あとはカマンザの耳まで届かなかったのです。

 カマンザは郵便局の中を見まわし、自分の他には誰もいないと知って、局員の顔を確認しました。どうやら、先のひそひそと話す二人しかいないようです。

 カマンザは急いで切手と葉書を買いもとめ、受け取るときに、いつもより余計に笑顔を返しました。そうしたくなる何ごとかが胸の奥から、じわじわと立ち上がってきたのです。

 カマンザは家に帰る前に隣町の商店街にある書店に立ち寄りました。誰にも見つからないよう慎重に書店の棚を探り、およそ半時間をかけて、ついに見つけました。

 それは『貨物列車時刻表』という表題が付いたとても小さな薄い本で、薄いわりに二千円もしたのですが、

(これは特殊な本で発行部数も非常に少なく、だから値段も高くなっているのだ)

 とカマンザなりに解釈をして、迷わず手に入れました。

 一応、家に戻るときは少し遠まわりをし、隣町の書店でこのようにめずらしい本を買ったことを誰にもさとられないよう注意深く家路を急ぎました。

 無事、家に帰り着くと、カマンザは心を落ち着けるべく、果物屋で買ってきた枇杷の皮をていねいに剥いて食べました。

 子供のころからひとりで暮らしてきたカマンザは、何か気持ちが落ち着かないことがあると、こうして果物を剥いて食べるのです。白い皿の上にのせ、色が変わってしまわないうちにすっかり食べ尽くしました。

 食べ終えるとカマンザは深呼吸をひとつして、机の上をきれいにしてから、『貨物列車時刻表』を開きました。この小さな冊子には、驚くなかれ、この国に走るありとあらゆる貨物列車の時刻表が青いインクで印刷されています。青いインクが少し薄めで、それゆえ、いくつかの列車は肝心の時刻がうまく読めなかったり、駅名がところどころかすれたりしていました。

 しかし、カマンザは見つけたのです。

 ビバリダイ。

 たしかにその駅は存在し、カマンザの住んでいる町から十キロほど離れた山あいを走る貨物専用鉄道の終点でした。

 カマンザはもうひとつ深呼吸をしました。そしてそのとき、誰かがそっとカマンザの背中を押したのを感じたのです──。

(これはわたしにとって、あれ以来、初めての冒険になる)
(もう二度と冒険には出ない、と決めていたのに)
(わたしは女の子なのに男の子にあこがれ、男の子たちにまじって、あの冒険に出た)
(そして、ただひとり、わたしだけが帰ってきた──)