連載掌編小説【月とコーヒー】第七話 ジョーカーのサンドイッチ

吉田篤弘

【月とコーヒー】第七話 ジョーカーのサンドイッチ

食楽web

 彼はトランプのカードから抜け出して、いまここにいるのでした。

 どうしてそういうことになったのか、彼自身にもわからないのですが、カードの中で日々を送りながら、トランプ・ゲームに興じる男たちが片手間に食べていたサンドイッチがじつに懐かしくも美味しそうだと思ったのです。

 いや、より正確に云うと、彼らの食べているサンドイッチを自分なりにアレンジしたら、さらに美味しいものになるのではないかと夢想していました。

 おそらく、その夢が叶えられたのでしょう。

 ちょうど、男たちはストリップを観に出かけたばかりでした。ここから二キロほど離れたにぎやかなところに虹色のネオンが輝く歓楽街があるのです。

 男たちは長引く不況で仕事にあぶれ、次の仕事にありつくまで、暇を持て余していました。ビリヤードをし、ダーツをし、釣りをし、ある男はこの機会にボディ・ビルディングを試み、またある男はトランペットを吹いてみたりしたのですが、どれも長続きしません。

「結局、ホントに愉しめるのは、トランプとストリップ見物だけだな」

 ほんの一時間ほど前まで、男たちはトランプの〈ラスト・ジョーカー〉で遊んでいました。同じ数字のカードを二枚ずつ揃えてゆき、最後に一枚のこったジョーカーを持っている者が負けとなる──この上なくシンプルなゲームです。

 負けた男が「ちっ」と舌打ちをしてジョーカーをテーブルに投げ出し、

「よし、そろそろ時間だ」

 飲み残しのビールをあおり、男たちは溜まり場であるこのカフェから出て行きました。しばらく帰ってこないでしょう。

 きっと神様はこうした状況を鑑みて、テーブルに投げ出されたジョーカーのカードから、「ジョーカー」と呼ばれるその男をカードの外に解放したのです。

 ジョーカーは男たちがいなくなったテーブルにつき、彼らが食べ残したサンドイッチをむさぼるように食べました。

 彼はまったくそのままの姿でカードから抜け出してきたので、トランプの絵柄どおりの身なりです。奇妙な帽子をかぶり、黒ダイヤの模様が入ったシャツを着て、スリムな縞のズボンに、つま先が反り返った赤いバレエ・シューズのような靴をはいていました。

 無論のこと、彼の元いたカードはJOKERの文字があるばかりの白いカードになっています。

「ふむ」と彼はうなずきました。「そういうことか」

(俺があんまりサンドイッチを食べたがったものだから、神様がチャンスを与えてくださったのだな──)

 彼はカードの中にいたときから、自分の記憶をしきりに探っていましたが、サンドイッチを口にするなり、すぐに思い出されることがありました。

(俺は、このサンドイッチという食べものを、ずっと昔によく食べていた)

 どんな生活を送って、どんな仕事をしていたのかは思い出せなかったのですが、サンドイッチが何よりの好物で、自分でつくって夜食か何かに食べていた──と、そこだけスポットライトが当てられたように記憶がよみがえりました。

(美味しくつくるコツがあるんだ)

 ひとことで云えば、大胆にして繊細に──です。

 たとえば、肉や卵は大胆にざっくりと切ってパンにのせます。

 一方、きゅうりや玉ねぎや林檎は繊細に細く切ってのせてゆきます。

 これに加えて、バターやクリーム、マスタードや蜂蜜といったものを適量加え、最後の塩と胡椒の振り方で味が完成します。その微妙なさじ加減も彼は入念な研究の結果、これぞという分量を割り出していました。

 彼はそうして少しずつ思い出しました。

(そうだ、俺は昔、サンドイッチ屋だったのだ)(自慢のサンドイッチを何種類もメニューにのせ、行列ができるくらいの人気店だった)



 いえ、それは本当のことではありません。

 彼が大変に美味しいサンドイッチをつくれることは事実なのですが、サンドイッチ屋であった、というのは彼の夢想です。

 二年前──不況が始まって男たちが工場の仕事を失ったとき、彼もまたその一人で、さてどうしようか、と途方に暮れながらこのカフェにたどり着きました。

 夜です──。

 彼が窓辺の席に座ってコーヒーを注文すると、注文をとりにきたカフェの女の子──彼女の名前はシルヴィアというのですが──が彼に優しく微笑みかけました。

 窓の外には空高く小さな月が見えます。

 彼はシルヴィアにひとめぼれをしてしまい、彼は独り身だったのですが、これまでにこれほど強い思いを抱いたことはありませんでした。

(そうか、そういうことか)

 彼は運命を感じました。

(俺は店をひらくのだ)

 カフェの店内を見まわして納得しました。

(こんなに広い店でなくてもいい。もっと小さな店で充分だ──)

 隅の方の席でみすぼらしいなりをした老人がサンドイッチを食べていました。

(じいさん、そのサンドイッチはうまいのかい? 俺にはそう見えないけど。一度、俺のサンドイッチを食べてほしいね)

 自信はありました。工場の食堂で定食を食べるより、自分でつくっていったサンドイッチの方がよほど美味しかったのです。現に彼が包みをひらいて食べ始めると、仲間の男が横から手を出してひと口つまみ、

「おい、これは売りものになるぞ。素晴らしいサンドイッチじゃないか」

 真顔でそう云ったのです。

「お前はサンドイッチ屋になるべきだよ。きっと繁盛する」

 そうか、そんな人生もあるのか、とそのとき彼はぼんやり思いました。そのときの思いが一挙にぶり返してきたのです──。

「お待たせしました」

 シルヴィアが彼のテーブルにコーヒーを持ってきて、笑みを浮かべながらそっと置きました。これは彼の錯覚ではありません。シルヴィアは彼に限らず店のお客たちの誰にでもそうして微笑みかけるのです。

 彼は香ばしいコーヒーをひと口飲んで心に決めました。(店をひらいたら彼女に手伝ってもらおう。行く行くは一緒に暮らすことだって考えられる)

 彼は「ニヤリ」と音が聞こえるくらい口を三日月形にして笑みを浮かべ、店の奥のテーブルでトランプ・ゲームに興じている男たちに目をとめました。

 そのときはまだ不況が始まったばかりだったので、男たちはかなりの大金を賭けてゲームをしていたのです。

(なるほど)と彼は自分の運命を信じました。(俺は賭けに勝って、店をひらく資金を手に入れるのだ──)

「俺も仲間に入れてくれ」

 彼は男たちのテーブルに加わり、最初は調子よく勝っていたのですが、最終的には大敗してしまいました。

「すまない。俺は金がないのだ」

 ジョーカーのカードを握りしめた彼は男たちに詰め寄られ、するりと身をひるがえすと、テーブルの上に散らばっていた札をひったくって走り出しました。

 ──いえ、走り出そうとしたのですが、その途端に消えてしまったのです。

「あ?」「どうした?」男たちは困惑しました。「消えたぞ」「まさか」「そんなわけが」「しかし、姿がない」「ふうむ」「どうやら、ビールを飲みすぎたらしいな」

 消えたのではありません。身勝手なふるまいの罰として、彼はトランプのカードの中に閉じ込められてしまったのです。