連載掌編小説【月とコーヒー】第四話 アーノルドのいない夜

【月とコーヒー】第四話 アーノルドのいない夜
食楽web

吉田篤弘

 彼らはなるべく静かな終の住処を選んだのです。条件はそのひとつだけで、入居に際して「他に望むことはありません」と明言しました。

 このシニアハウスには12人の老人たちが暮らしているのですが、都会のはずれにある低層マンションを改築したものでした。大通りから離れ、木立ちに囲まれて、夜になれば周囲に人通りもありません。

「陸の孤島というやつだな」と老人のひとりが云いました。彼らは──まったくの偶然なのですが──皆同じようにシニカルで、厭世的で、他人と仲良くしようという意識がないのです。

「もう、この歳になったらね」と彼らは云います。
「他人のことなんて、どうだっていいんだよ」

 静かに余生を送ることができたらそれでいい。望みはそれだけだね──口を揃えてそう云うのですが、

「毎日のお食事は、ちゃんとしたものがいいわね」

 78歳の園子さんが云いました。

 これは12人の共通した意見でもあります。

 ハウスの経営者は彼らの希望になるべく応えてあげたいと考え、歳若い男の料理人を雇って、朝昼晩の三度の食事を、他のどのハウスよりも充実したものにしました。

「ただし、料理人は常駐ヘルパーでもありますので──」

 語尾がにごされましたが、これは恒常的なヘルパー不足のあらわれでした。21世紀の後半にはいってから、こうしたコンパクト・タイプのシニアハウスの中には常駐は皆無というところもあるのです。それに比べれば、シェフが本職なのでいささか心もとないとはいえ、何かあったときに若い男の力が借りられるのは得難いことでした。

 料理人の彼は、ハウスの厨房をまかされる以前、フランス料理店でシェフの見習いをしていました。

「道理で料理がこじゃれてるわ」と82歳の真奈美さんが云いました。
「バターを控えめにしてほしいな」と83歳の哲郎さんが云いました。
「見ばえより味よ」と79歳の光代さんが云いました。

 こうした彼らの意見にもいちいち耳をかたむけ、若い料理人は、毎日、彼なりに工夫をこらしておいしい食事を老人たちに提供していました。

 彼の上の名前は安藤というのですが、老人たちは──とりわけ御婦人たちは──はたして本当に耳が遠いのか、それとも若い彼をからかっているのか、「アーノルド」とその名を聞き間違え、以来、老人たちの誰もが彼をアーノルドと呼ぶようになりました。



 ある夜のことです。

 食事は一階にある食堂で、皆一緒に食べる習わしになっているのですが、その夜もアーノルドは腕をふるい──いや、いつもより余計に奮闘して大変に手の込んだ料理をつくったのです。

 しかし、揃って皮肉屋である老人たちは、「こりゃ一体、なんだい?」「ちまちましていて、ちっとも食べた気がしないね」「あたしは塩鮭が食べたいんだ。こんな訳のわからないものは食べたくないよ」

 口々にそんなことを云うのです。

「ごめんなさい」とアーノルドは丁重に詫びながらも、老人たちが全員揃っているのを確認すると、「すみません、じつは」と打ち明けたのです。

「ぼくは明日、故郷に帰りたいのです」

 楊枝で歯の隙間にはさまった食べかすを掃除したり、食後のコーヒーを飲んでいたりした老人たちは、いっせいにアーノルドのいかにも申し訳なさそうな顔を見ました。

「ひと晩で戻ります。でも、明日の晩御飯だけ、どうしてもおつくりすることができないのです。もし、簡単なものでよかったら、つくり置いておきますが──」
「ふうん」と84歳の光男さんが首を横に振りました。「それはまた、自分勝手な話だね」
「簡単なものなんか食べたくないよ」「冷えたスープ? 冗談じゃない」「この先、そんなことが何度もあると、わたしたちは餓死してしまうのよ」──82歳の里菜さんがそう云いました。彼女はいつも云うことが大げさなのです。

「すみません」とアーノルドは何度も頭を下げました。「じつは妹が体をこわして入院してしまったのです。幸い、悪い病気ではないと検査の結果も出たんですが、ずいぶん心細い思いをしているようなので、顔を見に行きたいのです」

「それを云うなら、顔を見せに行くだろう」誰かが意地悪く指摘しました。
「お前さんの、そのしけた顔をかい」と誰かが鼻を鳴らしながら云いました。
「本当にひと晩だけだろうね」「約束できるなら仕方ないけどさ」「妹思いの兄さんってわけか」「こっちだって、いつお迎えが来るかわからないんだけどね」「まぁ、好きなようにしたらいいよ」

 どうにか理解を得られ、アーノルドは翌日の朝、老人たちの朝食と昼食を準備すると、小さな旅行鞄ひとつで郷里に向かいました。

「ふん」「いい気なもんだ」「まったくもって」

 老人たちはいつもの温かい食事ではなく、とっくに冷えてしまった料理を食べながら、何度も文句を云いました。

 アーノルドの書き置いたメモには「温めなおしてください」と指示があったのですが、

「そんな面倒なことができるかい」

 老人たちはメモを無視して冷たい料理を味気なく食べたのです。

「やっぱり、夜の分もつくっておきますよ」

 出発前にアーノルドは何度もそう云ったのですが、

「いいよ」「一度、冷たくなっちまったものなんてうまくない」「勝手に好きなものを食べますよ」「カップ麺の買い置きがあるし」「デリバリーの方がよほどうまい」

 老人たちの誰もが拒否したのです。

 昼食のあと、しばらくいつものように静かな時間が流れました。誰も自分の部屋に戻りません。食器を片づけると食堂の椅子に腰をおろし、12人の老人たちは黙ったまま動きませんでした。

「本当は秘密にしておきたかったんだけどね」──見かねたように哲郎さんが云いました。「僕は昔、ヨコハマで洋食屋をひらいていたことがある」
「ほう?」と77歳の新一さんが顔を上げ、哲郎さんの顔をまじまじと見なおしました。「なんという店ですか?」
「〈エデン〉といいまして──」
「ああ、あの店ですか。私もヨコハマだったんで、よく行きましたよ。そうでしたか、じゃあ、あの店のクリーム・シチューはあなたが──」
「ええ。僕がつくっていました。あれはうちの看板メニューでしたからね」
「そうなの?」と里菜さんが興味深そうに身を乗り出しました。「じつは、わたし、調理師の免許を持ってるの。友だちのお店を手伝ってたことがあって──」
「シチューくらいなら、私だっておいしくつくれますよ」「あたしだって」「ほう、そうかい」「そうなんだ?」と見合わせた顔がしだいに増えてゆき、そのうち12人の老人たちは気づいたのです。身寄りのない彼らは、ここへ入居するまで、自らの食事を毎日毎日、一日も休むことなくつくりつづけていたのだということを──。