連載掌編小説【月とコーヒー】第二十四話 ヒイラギの青空【最終回】

吉田篤弘

連載掌編小説【月とコーヒー】第二十四話 ヒイラギの青空【最終回】
食楽web

 ヒイラギというのが彼の名前で、年齢はと云えば二十九歳です。彼を知る女たちは、皆こう云うのでした。

「見た目はいい男なんだけど、とにかく何を考えているのか、よく判らないの」

 それもそのはずです。ヒイラギ自身、自分が何を考えているか判らないのでした。

「でも」

 彼はそのひとことだけを声に出してつぶやきます。あとは声に出すことなく、

(でも、自分がいま何を考えているか正確に判る者などいるんだろうか?)

 と誰に向けてでもなく問うのです。

 彼は窓拭きでした。

 高いところからぶらさがって、高いところにある窓を拭く仕事です。六年間、ほぼ毎日働き、つまり、ヒイラギはこの六年間のほとんどの時間を宙ぶらりんになって過ごしてきたわけです。

(それはたぶん、いいことじゃない)

 彼は自分に云いました。

(そろそろ地上に戻って、地上で息をして、地上で生活をしないと──)

 窓を拭くのは良いことです。ひとは皆、一生に一度は窓拭きの仕事に就くべきで、窓をきれいにすることが人々の生活や仕事をどんなにより良いものにしているか知るべきです。

(でも、僕はもう窓拭きをやめて、あたらしい仕事をする方がいい)

 ヒイラギは長いあいだ窓を拭きつづけてきて、だからこそ、そのような結論に至ったのでした。

 辞表を書きました。

 空中の世界から離れて地上に戻り、ヒイラギは歩くたび自分の足の裏が地面に貼りついてしまうような気がして、重力の強さに辟易すると同時に畏敬の念を抱きました。

(重力は偉大だ。どんな人間も平等に地上につなぎとめてくれる)

「でも」
(どこへ行ったらいいのだろう──)

 足が迷いました。地上はあまりに広く、広すぎて頭がくらくらしてきて、どちらへ行けばよいか判りません。

 彼はこれまでさまざまなビルにぶらさがり、地上に広がるいくつもの町を見おろしてきました。そして、そうした日々をつづけるうち、ある日、大変に混み入った、まるで迷路のような路地をもった街区を見つけたのです。

(もし、あの町で暮らしたら、どんな人生を送ることになるだろう)
(もしかして、あの迷路のような路地からぬけ出せなくなってしまうんじゃないか?)
「でも」

 とヒイラギはつぶやきました。

(いつか、あの町に行ってみたい──いや、きっと行くことになるだろう)



 それで彼は地上をさまよい歩いて、その町にやって来たわけです。

(ついに)と彼は云いようのない喜びに浸っていました。
「でも」
(いったい、この町でどんなふうに暮らしていけばいいのか。まずもって仕事があるのか、もし、あったとして、はたしてそれが窓拭きよりも自分にちょうどよく合った仕事であるのか──)

 路地は昔のままでした。

 といって、ヒイラギはその町の昔のことなど知らないのです。ただ、その入り組んだ路地のひとつひとつが昔から変わらずそこにあることが直感で判りました。

 ヒイラギは直感で行動する男です。彼がしばしば「何を考えているのか判らない」と評されるのは、彼が自らの直感に従って行動してきたからです。

(僕はこういう町が愛おしい)

 彼はそのとき初めて町というものに対してそう感じたのでした。空中にいるときは区別がつかなかったのです。どんな町が自分にとって好ましく、どんな町を自分は望んでいないか──。

「でも」

 彼は路地を歩きながら考えました。

(まったく迷路のようで、どちらへ行けばいいか判らない)
「でも」

 彼は立ちどまって首を振りました。

(自分は迷うことが嫌いだ。だから、空中で仕事をつづけてきた。空中にいる限りは、右へ行くか左へ行くかで悩まずに済む。でも、ここではいちいち右か左かを選びながら路地を進んで行かなければならない。なのに、なぜ魅かれるのか。この町が昔のままであることが好ましいのか)

 どうやらそのようでした。

 昔のまま街路が混沌として整理されておらず、迷路のごとき路地で迷いながら生きていくことは──、

(そんなに悪いことじゃない)

 彼の直感がそう思いなおしました。

「でも」
(さて、とりあえずどちらへ行ったらいいものか)

 そのときです。

 何か赤いものがひとつ、彼の足もとに転がってきました。いや、ひとつではなく、ふたつ、みっつ、よっつ、と少し傾斜した路地の高いところから次々と転がってきます。

 林檎でした。