連載掌編小説【月とコーヒー】第二十三話 マーちゃんの眼鏡

吉田篤弘

連載掌編小説【月とコーヒー】第二十三話 マーちゃんの眼鏡
食楽web

 大踏切の向こうに〈カドヤ〉という店があることは知っていました。でも、ミナミは行ったことがありません。ただ、〈カドヤ〉の通信販売のチラシを眺め、写真入りで並んだいくつかの商品の中からオーブン・トースターを注文したのです。

 チラシはミナミの住むアパートのポストに投げ込まれていました。ミナミはこのごろ目が悪くなり、チラシの細かい文字がよく見えないのです。けれども、「安売り」と大きく印刷された三文字がミナミを脅かすように迫ってきました。そのトースターは評判の品でしたし、ひとり暮らしを始めるときに母親が買ってくれた旧式トースターは、ある日突然、パンを黒焦げにしてしまったのです。パンが焦げてしまうくらい悲しいことはありません。

 その点、〈カドヤ〉から送られてきたあたらしい方式のトースターは、じつにちょうどよくトーストを焼き上げました。しばらくは何の不安もなく美味しくトーストを食べていたのです。

 ところが、さて、どういうわけか、ある朝突然、あたらしいトースターがパンを黒焦げにしてしまいました。

 ミナミは取扱説明書と保証書を引き出しから取り出してくると、「おといあわせ」と何故か平仮名で印刷されている注意書きを確認しました。そこには大踏切の向こうの住所と電話番号が記されていて、ミナミは迷わず「もしもし」と電話をかけてみたわけです。

「はい」と電話機の中から快活な若い女の声が聞こえてきました。「こちらは、お客さま相談係でございます」

「あの」とミナミはいざとなると何をどう云っていいか判らず、「パンが焦げてしまうのです」とようやくそう伝えると、電話の向こうの彼女は「それでは、お客さまのお名前とご住所をお願いします」と綺麗な声でそう云うのでした。その声に惹かれて、ミナミが住所と名前を告げますと、しばらくの沈黙のあと、「ミナミ?」とその女のひとが綺麗ではない普通の声で訊いてきました。

「あたし、豆腐屋のマーだよ」
「え、マーちゃんなの? 本当に?」

 ミナミは急に別のところへ連れ出されて、あたりの空気が一気にやわらいだような心地になりました。

「いつぶりだっけ?」

「そうね」とマーちゃんは記憶をたどっているようでした。「たぶん、中学の卒業ぶりかな」

「ずいぶん前だよね」
「ずいぶん前」
「どうして──」
「うん。こっちへ来たの。昨年、ようやくね」
「大踏切を渡って?」
「そう。部屋も引っ越して──」
「そうなんだ」
「そうなの。いま仕事中だから詳しいことは会って話さない? 夜の七時に〈バンザイ酒場〉で。あたし、久々にそっちへ帰るから」



 大踏切というのは本当の名前ではありません。本当は──さて何と云うのでしょう。きっと誰も知りません。特別な踏切ではなく、遮断機の長さも通常のもので、警報音を響かせるあの赤い目をした例のものも、ごく普通の大きさです。では、なにゆえ「大踏切」と呼ばれているのかと云えば、こちらからあちらへ、もしくは、あちらからこちらへ渡ってくるその距離が、あきれ返るくらい大変に長いのです。誰もが途中で引き返したくなるような長さで、向こう側がまるで見えないくらい圧倒的に絶望的に長いのでした。

 そのうえ、無事に渡りきったひとは二度と戻ってくることがなく、そのうち、こちらからあちらへ行き着くこと自体がおそろしくなって、ミナミのいるこちら側の住民は、いつからか誰も大踏切を利用しなくなりました。そもそも、そのあたりは電車の車庫が連なっているばかりで、陽が暮れるとぼんやりと電車のあかりだけが見えるさびれたところなのでした。

 しかしです。そのような大踏切の端に、ただひとつ〈バンザイ酒場〉というおかしな店があり、白い暖簾に「笑いながらバンザイをする男」が描かれていました。店の中にはその絵の男にそっくりの店主がいて、絵と違うのは、どんなときも、まったく笑顔を見せないのです。むしろ常に怒っているようで、何か大変に不満を抱いた様子で名物の肉団子を黙々とこしらえているのでした。

 この肉団子は軽く揚げてあるので表面がカリッとしており、一見、とても美味しそうには見えないのですが、ひと口食べると中から泉のように肉汁があふれ出すのです。その美味さには余計なソースなど必要ありません。わずかばかりの塩が皿の端に盛られていますが、それですらまじないのようなもので、塩をつけて食べる客など皆無です。

 大踏切を渡ろうとする者はいませんが、この肉団子を目当てに客はそこそこ訪れ、客はすべてこちら側の者であって、あちら側から大踏切を渡って肉団子を食べに来る者はありません。

(きっと来ないだろうな)

 ミナミはそう思っていました。マーちゃんはああ云っていたけれど、あれはクレーマーである自分をいなすためのマーちゃん流のやり方で、たぶんこちらに帰ってくるつもりはなくて、明日また電話をしてみると、「ごめん、今日こそ会おうよ」と誘ってくる──マーちゃんにはそういうところがありました。

 ミナミはマーちゃんと特別仲が良かったわけではありません。マーちゃんは女の子なのに黒ぶちの大人がかけるような分厚いレンズの眼鏡をかけ、つまり、とっても目が悪いのです。

「あたし、眼鏡がなかったら、なあんにも見えないの」

 そのくせマーちゃんはお転婆なところがあり、はしゃいで走り回って、大事な眼鏡をどこかに落としてしまうことが度々ありました。そういうとき、ミナミは誰ひとりマーちゃんを助けようとしない級友たちに辟易し、「大丈夫?」と声をかけて一緒に眼鏡を探してあげたのでした。

 そういう仲ではあったのですが、いずれにしても、それはもうずっと昔のことです。

〈バンザイ酒場〉の前に立ち、大踏切の向こうを見据えていると、「いつか」とミナミはもう何度口にしたか知れない思いを、またつぶやいていました。

「いつかきっと、向こうへ行こうよ、わたし」

 子供のころからそう唱えてきたのです。けれども、この大踏切は先に申し上げたとおり、そう簡単に渡り切れるものではないのです。無茶をして特急列車に轢かれ、白いシャツが散り散りに宙を舞って命を落とした者もありました。電車の側も、いつからか大踏切を渡る者などいないだろうとタカをくくり、まるで踏切など存在していないかのように、思いきりスピードを上げて通過して行きます。

「でも、いつかはね──」

 時計の針がまわって約束の時間の七時を十五分過ぎたとき、「やっぱり来ない」とミナミは待つことをやめて大踏切から離れようとしました。

 そのときです。

 ずっと遠くから──もはや彼方と云っていい遠い向こうから、ゆっくりしているような急いでいるようなおかしな足取りでマーちゃんはやって来ました。間違いありません。なぜって、マーちゃんは子供のころと寸分違わないあの黒ぶちの眼鏡をかけていたからです。

 マーちゃんは決然とした面持ちでこちらへまっすぐ歩いてきて、ミナミの顔を認めるなり、「ひさしぶり」と手を挙げました。