連載掌編小説【月とコーヒー】 第二話 映写技師の夕食

【月とコーヒー】第二話 映写技師の夕食
食楽web

吉田篤弘

『つむじ風食堂の夜』などの作品で知られる人気作家、吉田篤弘さんによる連載です。摩訶不思議な味わいの作風は本作でも健在。食べ物にまつわる小さな物語を月二回更新でお届けします。


 彼女はアオイという名の十七歳の女の子で、これまでにいろいろと問題があって人生がつまらなくなり、いまはモリナガという町で出前の仕事に就いているのです。

 出前というのは西洋の言葉におきかえると「デリバリー」ということになるでしょうか。モリナガという町はことごとく昔のままで、彼すなわちイノウエは、この町のそんな風潮が肌にあって、この秋からモリナガに住み暮らしています。

 イノウエは自転車を直すのが若いときからの生業でした。彼はタバコを吸うときにマッチを擦るのを、ことのほか小気味よく感じており、モリナガへ来るなり自分の店の宣伝用マッチをつくって、そこに〈イノウエ自転車病院〉と店の屋号を刷り込みました──。

 あ、ちょっと待ってください。イノウエの話はひとまずどうでもいいのでした。急いで話をアオイに戻しましょう。

 彼女は〈出前協会〉に登録している、いわゆる〈自由出前人〉です。これはようするに特定の洋食屋や中華料理屋に身を置くのではなく、そのときそのときで店の注文に応じて、ピザを運んだり、焼き飯を運んだり、ストロベリー・パフェを運んだりするのです。西洋の言葉におきかえると「フリー」ということになるでしょうか。

 ついでに申し添えますと、アオイは登録をするときに「昼」と「夜」のどちらかに◯をつけよ、と用紙に書いてあるのを読み、彼女は夜が好きでしたから、迷うことなく、「夜」の方に◯をつけて提出しました。

 しかしこれは、出前の仕事に際して、昼食専門を希望するか、夕食専門を希望するかという二者択一で、無事に面接にも合格して出前の免許をもらい受けたとき、アオイは身分証明カードの右上に「夜」と青い判子が捺してあるのを見つけて、ようやくその意味を理解したのでした。

「いいじゃないか」とイノウエはアオイの自転車を診ながら笑みを浮かべました。「私も昼か夜かと訊かれたら、夜に◯をつけてしまうだろうね。現にこうして夜中まで店をひらいているわけだし──」

「でも」とアオイは首を横に振りました。「わたしは女ですし、まだずいぶんと若いですし、夜のモリナガを自転車で走りまわるのは心細いのです。ミズシマさんに、『それはとても危険なことですよ、お嬢さん』と云われました」

「ほう」とイノウエは油で黒ずんだ指で、鼻からずり落ちたロイド眼鏡を正しい位置に押しあげました。

「そのミズシマというのは誰のことなんだね」
「映写技師さんです」

 今度はアオイが笑みを浮かべました。



 映写技師のミズシマは、モリナガのはずれにある三本立て映画館で働いています。三本の映画を一日に二度も三度も上映するので、朝から晩までフィルムを回しつづけなくてはなりません。それで彼は夕食を食べに行く間がないのです。致し方なく出前を注文し、これを届けにくるのが決まってアオイでした。

 ミズシマは大変に大人びた青年で、礼儀正しく、言葉づかいもふざけたところがありません。アオイのことを「お嬢さん」と呼び、そんなふうに呼ばれたのは初めてだったので、アオイはすっかりミズシマに恋をしてしまったのです。

 でなければ、あのように困難なところへサンドイッチを届けようとは思いません。「無理です。わたし、できません」と〈出前協会〉に申し出て、別の出前人にチェンジしてもらうことも可能でした。

 しかし、アオイは行くのです。毎日、行くのでした。なぜなら恋をしているからで、いえ、もちろんそれだけではなく、ミズシマが驚くばかりに小さな部屋で、誰にも知られることなくこつこつと仕事をしている様子に、(わたしが救いたい)と思ったのです。(あのひとの空腹を充たしてあげたい)と──。

 午後六時十五分。

 それが映写技師ミズシマの夕食の時間です。その時間きっかりにアオイはミズシマが所望する「簡単なサンドイッチ」を届けにいきます。それは決してエッグ・サンドやハム・サンドではありません。何がはさまっているかはどうでもいいのです。

「とにかく、簡単に食べられるものにしてください」

 ミズシマの注文はその一点に尽きました。オーダーを受けたサンドイッチ屋のヤマモトは、「ふつうのサンドイッチよりかなり小ぶりで、全体的にもたつきのないものにしてある」とアオイに説明しました。

「すごく、きりっとしたサンドイッチなんだよ。それでいて、適度に水分を保ってる。簡単だけど簡単じゃない。ぼくに云わせれば、これこそ最高のサンドイッチだね。でも、君がもたついてしまったら元も子もないんだ。六時十五分までにかならず届けておくれ」

「はい」とアオイは自転車に飛び乗り、サンドイッチをいれた白くて華奢な箱が動かないよう、背中の〈安心箱〉にしっかりとホールドしました。

 しかしです。ミズシマのいる〈映写室〉には「映画館の裏口から入るように」と館主にきびしく云われており、この裏口を目指すためには、ほとんど迷路と云っていいビルとビルのあいだの細い路地を行かなくてはなりません。右へ曲がったり左へ曲がったりもあわただしく、地図ではなく体で覚えないと逆に迷ってしまうのです。

 それで、アオイはまだ陽の暮れない昼のうちから何度もその迷路を走りまわり、体に順路を記憶させて夕方の出前に臨みました。

 想像を絶するような狭い路地です。自転車は無論のこと、人がすれ違うこともままならず、ただでさえビルの狭間は陽が当たらなくて、六時を過ぎると真っ暗です。

 東西南北もわからなくなり、わずかな手がかりとなるビルの窓からこぼれた光と、ビルの表側で輝くネオンサインの照り返しを頼りに走りました。