連載掌編小説【月とコーヒー】第二十二話 二階の虎の絵

吉田篤弘

連載掌編小説【月とコーヒー】第二十二話 二階の虎の絵
食楽web

〈中山先生〉というのが、その店の名前です。〈中山先生〉の主人である中山太郎氏は、その昔、学校の先生をつとめており、皆から「中山先生」と呼ばれていました。

 先生は先生の仕事のあとに校正の仕事に就き、そのあと、少しのあいだ文具店などをひらいたときもあって、しかるのちに、先生の母親から教わった〈たまごのケーキ〉を街の皆に食べていただきたい、という思いから店をひらいたのでした。

〈たまごのケーキ〉は、円く平らに焼いたパイのようなケーキを三角に切り分けて売っています。その断面はさまざまな黄色にいろどられ、甘い卵の味と、少しばかり塩気をはらんだ卵の味と、濃厚な味、やさしい味、ミルクのような味、チーズのような味──と、卵からつくられたじつにさまざまなクリームやら餡のようなものが層になって詰まっています。

 それは中山先生の母親が外国で教わってきたものでした。外国というのは、とても遠いところで、大きな暗い森があり、森の中には、いにしえより伝えられてきた大変に頭のいい一頭の虎が棲んでいたということです。

 中山先生の母親は、その国に若いときに滞在し、語学の勉強をしながら庭師の仕事を手伝っていました。

 庭師の名前はマリオンといって、かたちのいい帽子をかぶった寡黙な老人でした。老人でしたが体はきびきびと動き、朝から夕方まで働いて、仕事が終わると、夜の始まりの食卓で、シェリー酒を小さなグラスに一杯飲むのでした。

 中山先生の母親は、ただ一度だけでしたが、仕事の手伝いのあとにマリオン老人の家に招ばれ、小さなグラスに注いだ冷たいシェリー酒をいただいたことがあります。

 掌の中に隠れてしまうような小さなグラスで、細かい花の模様が彫り込まれていました。そっくり同じものがふたつあり、ひとつはマリオン老人が夕方にシェリー酒を飲むときにかならず使っているようでしたが、もうひとつのグラスはよく磨かれて、その表面に真新しい艶を残していました。

 中山先生の母親は、そのグラスに自分のシェリー酒を注いでもらい、ああ、これはマリオン老人のいまはもういない伴侶──奥様が使っていたものに違いないと直感しました。

「ああ」とマリオン老人は頷きました。「若くして逝ってしまったのだよ」

 老人は窓の外を見ました。窓の向こうには深緑色の森が見えます。

「彼女はとても絵が上手だった」と老人は云いました。
「二階にね、彼女の描いた虎の絵がある」

 そう云って、頭の上を指差したのですが、マリオン老人の家は平家なので二階などありません。

 中山先生の母親はその国の言葉をまだ充分に習得していなかったので、きっと自分は聞き間違いをしたのだろう、とそのときはそう思いました。



 ある日、マリオン老人が庭の仕事の合間に手提げ鞄の中から白い箱を取り出し、中山先生の母親に黙って差し出しました。

 午後のお茶の時間でした──。

 二人は依頼を受けて大きな庭をもった屋敷に来ていたのです。庭のはずれにあったベンチに二人は腰掛け、老人から受け取った白い箱のふたを中山先生の母親はひらきました。

 すると、三角に切り分けられた柔らかそうなパイのような菓子がふた切れ収められていて、水筒にいれた紅茶を飲みながら、その菓子を「食べなさい」と老人は薦めるのでした。

 中山先生の母親は云われるまま、その麗しく甘やかな黄色い菓子を口に運びました。そして、その夢のような甘さと、ねっとりしたクリームの味わいに大変驚き、それまで食べたことのない美味しさに身を震わせました。まるで、天国へやって来て、昔、一緒に遊んだ友達やいとこたちとお茶の時間を過ごしているような、うまく言葉にできない喜びを感じました。

「妻はそのケーキの作り方を彼女の母親から教わったと云っていた」

 老人は──おそらく──そう云っているのだと中山先生の母親は理解しました。

「そして、これが、母から娘へと代々つたえられてきた──」

 マリオン老人は胸のポケットから皺だらけの紙きれを一枚取り出し、中山先生の母親に「レシピだ」と手渡しました。

 その二日後です。

 マリオン老人は「森へ行く」と書き置きを残し、目撃した人の証言によると、

「全身に銀色の鎧をつけて、よろよろと森に入っていった」

 とのことでした。

 それきり帰って来なかったのです。

「きっと、虎に会いに行ったんだろう」
「長い冒険になると、知っていたんだろうね」
「虎はアレだからな」
「みんなのね──」
「そう。みんなの魂だから」

 近隣の人たちは口々にそう云いながら、暗い森の入口にたたずんでいました。