連載掌編小説【月とコーヒー】 第一話 甘くないケーキ

第一話 甘くないケーキ
食楽web

吉田篤弘

『つむじ風食堂の夜』などの作品で知られる人気作家、吉田篤弘さんによる連載です。摩訶不思議な味わいの作風は本作でも健在。食べ物にまつわる小さな物語を月二回更新でお届けします。


 その町には広大な私鉄電車の操車場がありました。夜になると、列車という列車がすべてここへ帰ってくるのです。月あかりに照らされた各駅電車のガラス窓が銀いろに光り、車庫におさまった特急列車は走り疲れた豹のようにひっそりと眠っています。

 この操車場から北へ十分ほど歩くと、〈第三変電所〉に突き当たります。変電所の向こうは、手つかずの樹木がそのままになった鬱蒼とした森です。

 彼の祖母はその森のそばに住んでいました。あるとき、格安の一軒家が売りに出され、祖母は貯金をはたいてその家を手に入れたのです。

 そのあたりは、祖母の家の他にはほとんど何もありません。「米と酒」と看板を掲げた小さな食料雑貨店があり、変電所の所員が寝泊まりをする無愛想な施設があるだけです。

 いや、もうひとつありました。このような何もないところへ、空から落ちてきた星のように〈ゴーゴリ〉という名の喫茶店があるのです。そんなところに店を構えて、はたして客はあるのだろうかと心配されるのですが、空の上から眺めてみると、周辺にはかろうじて人家が点在し、そうした家に住む人たちが自転車に乗って、〈ゴーゴリ〉へコーヒーを飲みにくるのです。

「それにしても、ここはさみしいところだよ」と、かつて祖母は彼に云いました。「でも、さみしいと感じるのは、少しでも人が住んでいるからでね、そもそも、誰も住んでいなかったら、さみしいと感じることさえないんだろうね」

 祖母はまたこうも云いました。

「わたしは、さみしいことなんてちっとも苦じゃないんだ。長いことひとりで暮らしてきたからね。その方が楽なくらい。なにしろ、物語を書く時間がたっぷりあるし──」

 祖母は彼がまだ子どもだった時分から「物語」を書いていました。

「とても長い物語なのよ。だから、完成するまで、すごく時間がかかると思う」

 祖母はその「物語」を革の表紙がついた特製のノートに鉛筆で書いていました。虫眼鏡で覗かないと読めないくらい細かい字でびっしり書いてあり、そのノートにしてもそうでしたが、彼には祖母が遺したものを整理する使命がありました。何より家を処分すべきかどうか決められず、何年ものあいだ、彼はその決定を先延ばしにしてきたのです。

 ただ、この一カ月あまり、彼は祖母の家で暮らし、〈ゴーゴリ〉に通っては、コーヒーを飲みながら祖母のノートを読んでいました。勤めていた活版印刷所が廃業となり、さしあたって仕事をなくしてしまった彼は、祖母の書いた長い長い「物語」を読むことを当面の仕事としたのです。



 喫茶店〈ゴーゴリ〉の歴史は、彼の祖母がこの土地に移り住む前から始まっていました。いまは、深緑いろのセーターを着た無口な若い女のひとが主人ですが、少し前までは、この場所に店をひらいた彼女の祖父がひとりで営んでいました。

(もう、やめてしまいたい)

 一カ月前のことです。声には出しませんでしたが、彼女は切実にそう思いました。

(こんなさみしいところでお店をつづけていくなんて耐えられない)

 彼女は〈東町図書館〉の臨時雇いに採用が決まっていたのです。しかし、働きはじめて一週間と経たないうちに祖父が他界し、

「あなたにお願いしたいの」

 母に云われて、とりあえず〈ゴーゴリ〉を引き継ぐことになりました。とはいえ、あまりに急なことで、図書館で働くことに未練がのこり、祖父が書きとめていたレシピをもとに、なんとか店をつづけていましたが、(そろそろ限界かな)とコーヒーをいれる手が止まることが度々ありました。

 それでもつづけていたのは、自転車に乗ってずいぶん遠くからコーヒーを飲みにきてくれるお客さんがいて、

「さみしいところだからこそ、つづけなくてはいけないと思うの」

 母の言葉に気持ちが揺らいで、見切りをつける決心がつかなかったのです。

 いえ、じつはもうひとつ理由がありました。

 一カ月ほど前から、毎日、午後一時にあらわれる青年──というのはまさしく彼のことです──がいて、毎日、同じ席に座り、毎日、同じノートをひらいて、虫眼鏡をあてがっては熱心にノートの文字を読んでいるのです。

 彼もまた口数が少なく、無口な彼女が少しずつ話を聞き出して、彼がいま何をしているのかようやく理解しました。

「では、あの家にひとりで暮らしているのですね」
「そういうことです」
「お食事は──」
「一応、自分でつくっていますが──」
「もしかして、お腹がすいています?」
「ええ、じつを云うと」
「うちは簡単なサンドイッチしかできないんですが」

 その「簡単なサンドイッチ」を彼もまた毎朝自分でつくっていて、

「今朝も食べたので、サンドイッチはもうたくさんです」
「そうですか」

 彼女は申し訳なさそうにテーブルを離れ、カウンターの中に戻ると、祖父が書きのこしたレシピの束を取り出しました。

(何かつくることはできないかしら)

 じつは、レシピの束の中に、ひとつ気になるものがあったのです。〈甘くないケーキ〉という名前が祖父の字で書いてあり、しかし店のメニューにそんなものは見当たりません。おそらく、試しにつくってみたものの、実際に提供することはなかったのでしょう。

(でも、なんだかおいしそう)

 祖父のレシピは祖父らしいごつごつとした字が並び、きわめてそっけなく材料の分量と不親切な手順が書きとめてあるだけでした。なんとなく、(おいしそう)などと思ったものの、さて、どんなものができ上がるのか見当もつきません。メニューにのらなかったということは、まったくの失敗作であったとも考えられ、ちょっとした冒険ではありましたが、彼女はつまり、青年の空腹を充たすためにそれをつくってみたのです。