マッキー牧元の記憶の三ツ星食堂|「呑喜」のおでん

マッキー牧元の記憶の三ツ星食堂|「呑喜」のおでん
食楽web

老舗から新店まで、新たな味と人との出会いを求め古今東西を駆け巡るマッキー牧元さん。そんなタベアルキストが、現在までに出会ってきたさまざまな店や料理の、今は味わうことが難しい“幻の味”の記憶をひもとく。

 僕はこの店で「おでん」を学んだ。
 おでんを食べることを通して、この庶民的な料理をいかに愛してやるか。そのための下準備や心構え、頼み方、楽しみ方などを学んだ。

 その店「呑喜」は、本郷通り東大農学部正門前近くに、ひっそりと佇んでいた。
 店名を金文字で浮き彫りした大きな扁額の下には、紺地の暖簾が下がり、左から右へ白文字で「呑喜」と記されていた。二つ文字の間には、こちらの家紋だろうか、赤く「蔓三ツ葵」がある。

 知らない人が通りかかったら、ここが120年以上も営んでいる老舗だとは、誰も気づかないだろう。創業明治20年のおでん屋は、それほどさりげない佇まいだった。

 ガラリと引き戸を開けると、時代が染みた壁や客の愛着と酒が染みてまっ茶色とになったカウンターが、静かに息づいている。カウンター内に置かれた赤銅丸鍋の中では、タネが身を寄せ合いながら、くつくつ煮えている。
 つゆの色は黒い。真っ黒である。当然甘くて辛いが、味に甘えはなく、舌に丸く、キリッと後味がいい。
 透き通った関西風出汁のよそよそしさとは違い、心が和む温かみがある。これこそが、気取りのない、昔っからの東京の味だった。

 「呑喜」は、4代に渡り、味を守り続けた。明治、大正、昭和、平成と時代が変わっても、古き良き東京のスタイルを貫いた。
 10月頃、「大根ください」と頼むと「すいませんねえ、後一ヶ月ほど待ってください」と、ご主人が答える。
 ジャガイモはおかず、牛すじはやらず、冬にしか大根はやらない。昆布巻きもないのは、江戸時代からの決まりで、鰹だしで煮るからである。その分、タネからコクが染み出でる。また、8月はまるまる休む。

 品書きはない。鍋の中(といっても真っ黒でほとんど見えないだけどネ)か、ガラスケースに入っているタネを見て、注文をする。
 大根、こんにゃく、白滝、焼き豆腐、玉子、竹輪、牛蒡巻き、イカ入りのボール、里芋、しのだ巻き、スジ、うずら、イイダコ、ヤリイカ、白竹輪、さつま揚げ、がんもどき、つみれ(イカ入り)、里芋、うずらボール、トコブシ、銀杏が、オールスターである。

 最初の頃は、「ジャガイモ」と頼むと、「ない」と言われ、「ちくわぶ」と頼むと「ない」といわれ、すごすごと引き下がりながら、常連の頼む姿を、じっと観察して真似た。

 値段は安い。学生でも来ることができる値段である。しかしご主人の態度と店の雰囲気には、きりっとした良い緊張感があって、気軽に訪れたものの、こりゃあ心を正さなくてはと思い。再訪した。

 今度は店の開けはなに伺い、鍋前に座る。前回学習したおでんタネを、2個ずつ頼む。2個ずつ頼むのは、それ以上頼むと、冷えてしまうからである。それに盛り合わせになっているより、2個ずつの光景の方が愛おしい。
 また「僕はおでんを大切に思っていますよ」という、勝手なメッセージでもあった。

 4代目となるご主人は、東京の職人らしく、無口で、一見愛想が悪い。しかしメッセージが届いたのかはわからないが、次第に柔らかくなって、機嫌のいい時は、いろいろ教えてくれた。
「お客さんが、ここの鍋は四角ではなくて、丸いねえなんていうけど、ありゃあ戦争でみんな弾になっちゃったン。戦後は仕方なく四角いアルミのバットでおでんを炊いてたんだ。それで今のおでんはみんな四角よ」。

 袋の中身は、牛肉とシラタキと玉葱。つまりすき焼きってえわけである。
「爺様の頃の袋はねえ、季節の味って、銀杏やら竹の子やら茸入れて福袋って呼んでたんだけどね。ここは学生さんが多いでしょ。みんなパクって食べて、気が付かない。だからやめちゃった」。

 白竹輪はちくわぶと似ているが、白竹輪は魚のすり身で作り、ちくわぶは小麦粉を練って作ることも教わり、信太巻きのいわれも教えてくれた。
「油揚げが狐の好物だから、信太の森の狐伝説からこの名が付いたんですよ」。
 ついでに信太の森の狐伝説も講義してくれた。

 だが、その信太巻きも白竹輪も、東北の震災を機になくなった。
「千葉から工場を小名浜に移してね。全部壊れちゃったんでさあ」。震災は、老舗にも影を落としていた。

 そんな話を聞けば聞くほど、おでんのタネの一つ一つが恋しくなる。だから頼み方も凝ってみる。
二品ずつ頼む場合、相性や味の違いという点も考慮するが、アート的な視点も大切だということに気がついた。
こんにゃくの三角に大根の丸姿(ちび太の世界だネ)。焼豆腐の四角とさつま揚げの平たい楕円、白と茶の色合い。

 玉子の曲線とちくわの直線。イイダコに可愛い銀杏、がんもどきや袋の球体に、鋭利なヤリイカという光景も渋い。

 寄り添う二つのタネを眺める。なにかこうほのぼのとした小宇宙がそこにはあって、おでんが一層恋しくなる。

「呑喜」に出かける前も、入念な準備をした。強制的におでんダシの匂いを嗅がせるコンビニには立ち寄らず、おでんへの飢餓感を高めて当日を迎える。出かけるときは、必ず一人。他人の注文とペースに惑わされたくないからである。

 酒は終始ぬる燗酒。「おでん燗酒」と一つの言葉に成っているように、誠におでんと燗酒は相性がいい。
 「呑喜」では、おでんの銅丸鍋を抱え込むように燗づけ機が設置されていて、酒といえば、ぬる燗だった。飲めば、おでんのつゆと調和する温度が心憎い。

 壁に掲げられた、墨跡鮮やかな「呑喜最佳」の額を尋ねると、文部大臣であり学習院長であった、阿部能成の書だという。また、突き当りの壁には、「電話 小石川四七三六番」と書かれた、古びた木札がかけられている。
「これは昔の電話番号ですか?」と尋ねれば、
「これにおを付けると、おでんは(お電話)品見ろ(4736)」と、ダジャレをかまされた。
 締めには茶飯を頼む。これも昔っからの東京の味である。僕はここでもう一度焼き豆腐を頼んで茶飯の友とした。崩して上にかけてもおいしい。
 ある日飲んでいると、東大生が四人入ってきた。「がんも、豆腐、芋、コンニャク、袋」銘々が頼む。
 焼き豆腐をつまみながら、「社会が人間を選び、人間が社会を選ぶんだ」と議論しあっている。議論しながらも、間をおかずおでんを食べているのはエライ。
 その姿を見ながら、この味は彼らに受け継がれていくのだろうか。三代と渡る常連客が入るように、彼らも結婚して、成人した子供を連れてくるのだろうかと、ふと考えた。
 しかし「呑喜」は、平成27年12月25日に閉店した。ご主人が急逝なされたのだと聞いた。

 店が終わって10時過ぎ、ご主人は残ったタネを取り出し、つゆを濾し、そこに新しく作ったつゆをたっぷり注いでいたという。「おでんは、つゆが新しくてこそ、うめえんだ」という、先代の教えを守っていたのである。

 僕はこの店でおでんを学んだ。でもそれ以上のことを、たくさん学んだ。

イラスト◎死後くん

●著者プロフィール

マッキー牧元 プロフィール

マッキー牧元

タベアルキスト。『味の手帖』編集主幹。食と作り手への愛が溢れた文章と肉1kgをたいらげる喰いっぷりにファン多数。立ち食い蕎麦からフレンチ、割烹まで、守備範囲は広い。近頃は本誌『食楽』誌上で名料理人ぶりも披露している。