【月とコーヒー】第十四話 空から落ちてきた男

吉田篤弘

【月とコーヒー】第十四話 空から落ちてきた男
食楽web

 母親がいなくなってから、彼女は父親とまともに話をすることがなくなっていました。そう思えば、母は父と自分の仲を取り持つ存在であったのだといまさらながらに思い、その存在の欠落はなかなか埋められないとイチゴ牛乳を飲みながら窓の外を眺めました。

 彼女は毎朝、学校へ行く前に父親と一緒にその簡易食堂に来ます。ハムとチーズとレタスをはさんだサンドイッチを食べ、決まって、イチゴ牛乳を飲むのがならわしです。

 学校というのは服飾を学ぶところで、いずれイタリアにでも行って、ファッションに関わる仕事に就くのを目標にしていました。

 彼女が身につけているものはいちいち派手で、そのにぎやかな色あいの服を彼女はアルバイトで得たお金で買っていました。しかし、そうすると、イタリアに行くための資金がなかなか貯まりません。それで彼女は、ときどきお金を払わずに店から勝手に服を持ってきてしまうことがありました。それはもちろんいけないことです。犯罪でした。見つかったら、父親が激怒することは間違いありません。

 父親は大変に強面なのです。もし、自分の父親でなかったとしても──いえ、父親でなければなおさらですが──激怒した顔に恐れをなして震え上がるでしょう。

 父親は口数が少なく、常にこの世に対して恨みを持っているような様子でした。実際、彼は(つまらん、つまらん)と胸のうちに常につぶやき、娘が生まれる前から──いやそれどころか、妻と知り合う前からゴム手袋の工場で働いていました。

「ゴム手袋?」と彼の仕事を聞いた人は必ず確かめます。
「ゴム手袋って、あのゴム手袋?」

(他にどんなゴム手袋があるんだ)と彼は胸のうちにつぶやきました。決して口に出して云うことはありませんが、もしかすると、云わずに我慢しているのが顔に出てしまうのかもしれません。それが余計に彼を強面に見せているのでした。

 娘が父親とこの食堂で朝食を食べるようになったのは、母親が世を去った次の日からです。娘も父親も食事をつくることが苦手で、父親はそもそもこの食堂で食事をするのが若いときからの習慣でした。娘はなんの考えもなしに父についてきただけで、なにより、一緒に食事をすれば、父親が食事代を払ってくれるのです。

 父親は例によって黙々と食事をするのみで、食べるものは若いときから決まっており、辛口のチリシチューにクラッカーを添えたものと熱いブラックコーヒーでした。それ以外は食べたことがありません。ですから、娘がサンドイッチやイチゴ牛乳を口に運んでいるのを、他の星からやってきた異生物を見るような目で眺めていました。

 娘は娘で父親の食べているものが得体の知れないものに見え、トマトとスパイスの入り混じったいい香りが漂ってくるのに、見た目からはまるで食指が動きませんでした。それに父親はタバコを吸いながら食事をするので、せっかくのいい香りも台無しになってしまうのです。

 この二人にただひとつ共通していたのは、食事のときにラジオを聴くことでした。とは云っても、それぞれ別の放送を聴いているので、二人は食事のあいだ中、イヤホンを耳に差して、当然のようにひとことも口をきかずにラジオを聴きながら食事をしていました。

 父親はローカル局の〈グッド・モーニング・プラネット〉という誰も聴かないような地味な音楽番組を聴いていました。朝のこの時間帯は情報番組を聴くのが一般的なのですが、父親の選んだこの番組は音楽中心の──それもブルースやソウルばかりの選曲で、しかし、朝の番組らしく、ときどきはニュースや交通情報などを流していました。

 一方、娘の方はといえば、ネット・ラジオの〈フー・ラブズ・ユー〉という番組を愛聴し、こちらは流行りの音楽をかけながら、やはりニュースや天気や今日の占いといったものを織り交ぜて放送していました。

 ひとつのテーブルをはさんで血のつながった親子が差し向かいで朝食を食べているのですが、二人は別々のラジオを聴き、会話は皆無で、お互いがお互いをどんなふうに思っているのかもわかりませんでした。

 そんな二人が突然、食事をしていた手をとめ、

「どういうこと?」

 と口を揃えて云ったのです。

 これはまったくの偶然だったのですが、それぞれが聴いていた番組がちょうど同じ時間にニュースを流し、ちょうど同じニュースを同時に伝えていたのでした。

 それは「一人の男が空から降ってきた」というもので、男は背中に羽根を持ち、薄汚れた白い寝巻のような服を着て、体中に傷があるとのことでした。どちらのニュースもそれ以上の詳細は伝えず、それで二人は期せずして、

「どういうこと?」

 と口を揃えてしまったのです。



 翌日の朝、二人はまたいつもどおり簡易食堂の窓ぎわの席で向かい合わせに座り、いつもの食事をしながら、いつものラジオを聴いていました。

 いつもと違っていたのは父親が新聞を読んでいたことで、娘が知る限り、この父親は新聞というものを憎んでおり、破り捨てているところは何度か目にしていましたが、熱心に記事を読んでいる姿は一度も見たことがありませんでした。

 そんな父親が何をそんなに夢中になって読んでいたのかというと、それは「空から降ってきた男」の続報で、記事の見出しには「空から落ちてきた男」とありました。それを見て、娘は思わず声をあげたのです。

「落ちてきたって、どういう意味?」

 父親はイヤホンごしに娘の声が聞こえたような気がして、新聞を半分だけ折りたたんで娘の顔を見ました。「うん?」とほとんど声にならない声を発し──なにしろ、娘とほとんど会話をしていなかったので、どんなふうに話していいかわからなかったのです。

「落ちてきた、てことは、その男は空の上に住んでいたとか?」

 今度は娘の声がはっきり聞こえました。それで父親は、

「どうも、そうらしいぞ」

 そう答えました。云い方が少しぎごちなかったかもしれません。娘と話すときはこういう口調でよかったのかどうか思い出せなかったのです。

「それってどういうこと?」娘はさらに訊きました。「そのひと、天使か何かなの?」
「ああ」と父親は記事を読みながら答えました。「そういうことらしい」
「まさか」
「いや、男自身がそう云っているそうだ」

 二人はいつのまにかイヤホンを外して話していました。

「自分を天使だって?」
「そう」父親は娘に記事を見せながら云いました。「ここに書いてある。『自分は失墜した天使である』と──」
「ちょっと待って」と娘が声を大きくしました。「天使って、自分で『失墜』とか云うんだ」
「そうみたいだな。失墜とか失速とか云ってるし、天使のくせに『罪を犯しました』なんてことも云ってる」

 父親がそう云いながらかすかに笑うと、娘も笑いかけて自分の罪を思い出しました。父親も何か思い出したのか、笑いかけた顔を元に戻すと、

「おかしな天使がいたものだ」

 そう云って、わざとらしく新聞をバサバサと折りたたみました。