連載掌編小説【月とコーヒー】第八話 青いインク

吉田篤弘

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食楽web

 インクをつくる仕事というものがあって、それも、青いインクだけを何年も何十年もつくってきた小さな工場がその町にはあるのでした。

 この町は電車やバスの駅もなく、役所や銀行や郵便局すらもない、非常に小ぢんまりとした町です。

 この小さな町のまわりには、大きなビルが並んでいたり、立派な病院や、きちんと整備された公園や、バイキングが名物の驚くほど大きなレストランなどがあって、小さな町は、そんな大きな町に包囲されるようにしてあるのでした。

 この小さな町の一番はずれに住んでいる或る御婦人は、アキレスという名前の外国の車を購入して、自分の家の前に停めておきました。

 しかしです。

 いつのまにか大きな町がさらなる発展を遂げて小さな町を侵食し、この御婦人の家のまわりにあった路地が、役所や私鉄電車の車庫がつくられたことによって、消滅してしまったのです。

 それで、アキレスは進むべき道を失い、どこにも走り出せなくなりました。

 この小さな町の細い路地の突き当たりには、そういうわけで、身動きの出来なくなった宇宙の色をした外国の車がひっそりと停められているのです。

 このように小さな町であるわけですから、インクをつくる工場もまた細い路地の奥にありました。

 驚いてはいけません。

 工場とはいっても大変に小さいのです。

 以前はもう少し大きな工場に何人かの男たちが働いていたのですが、いまは山崎という青年が先代の技術を引きついで、ただひとりでつくっているのでした。

 いえ、より正しく云えば、工場があまりに小さいので、山崎ひとりしか働くことが出来ないのです。

 でも、いいのです。

 この工場では青いインクをつくるだけで、それもただひとつ、コバルト・ブルーと呼ばれる、とっておきの青い色を、山崎は毎日毎日つくりつづけているのです。

 つくられたインクはおかしな形をした壜に詰められて、大きな町の大変に歴史のある文具店の店先に並びます──。

 大事なことを云い忘れました。

 山崎のつくるインクは万年筆のインクであり、したがって、文具店の万年筆売場に並べられます。

 この大きな文具店の万年筆売場に戸島という若い女性が勤めていて、彼女は世界中からあつめられた様々なインクを取り扱い、店先で購入を検討するお客様に、どのインクがいいか、お勧めするのが仕事です。

 ですから、彼女は世界中のあらゆるインクを熟知していましたし、仕事をはなれて家に帰ってからも、夜の静かな時間に日記帳をひらいて愛用の細身の万年筆を使うのです。

 このとき、これこそ夜の帳面に走らせるのにふさわしいと思われる、一等なめらかで、他のどれよりも深みのある色あいをもたらすインクを使うのですが、その「一等」のインクが山崎のつくった青いインクなのでした。

 戸島は思うのです。

 どれほど高級な舶来物のぴかぴかした万年筆であっても、インクが凡庸なものであったら台無しです。

 逆に云えば──これは決して売場で話してはならないことですが──仮に万年筆が最高級でなくても、インクが上等であれば、多くのひとが──男も女も、老いたひとも若いひとも──誰もが満足できる「本当の字」が書けるのです。

 戸島はまた思います。

「本当の字」というものを、ひとは書くべきだし、「本当の字」というのは、つまり、そのひとの、そのひとそのものが表れるものなのです。

 ですから、出来れば多くのひとたちに「本当の字」というものを知っていただき、自分というものを──自分そのものをです──万年筆のペン先から外に出してほしい、と願うのでした。

 戸島は考えました。

 山崎のつくったインクを使うたび、このインクをつくっているひとは「本当の字」を知っているひとではないか──と。

 そして、そのひともまた多くのひとたちに「本当の字」を書いてほしくて、このようなインクをつくりつづけているのだ──戸島はそう信じました。