連載掌編小説【月とコーヒー】第六話 隣のごちそう

連載掌編小説【月とコーヒー】第六話 隣のごちそう

食楽web

吉田篤弘

 長らく空いていたアパートの隣の部屋に誰かが引っ越してきたのを、マキは大家さんから聞いていました。

 しかし、何の物音もしないのです。

「大学の食堂で働いているそうよ」

 大家さんの情報は唯一それだけで、

「だから、朝早くに出かけて行くんじゃないかしら」

 と、そこのところは大家さんの憶測でした。

 マキはひと月ほど前に化粧品売場の売子の仕事をやめ、かねてより憧れていた「自由の身」を味わっていたのです。

「ねぇ聞いて、私いま、自由の身なの。仕事もしてないし、彼氏もいないし、好きな時間に起きて好きなところへ出かけて、何にも縛られてないの」

 友人たちにはそう云ったものの、本当を云えば、「次の仕事を探す」という大事な宿題を抱えていました。

 しかし、そう簡単に見つかるものではなく、早く探さなくてはと思いながらも、ただ漫然と一日を送ってしまうのでした。今日は昨日の繰り返しで、明日は今日の繰り返しです。

「なんとかなる」がマキの口ぐせでした。それに、お金は少しばかり蓄えがあります。おそらく、そのこともマキが仕事探しに積極的になれない理由のひとつでした。

 アパートの家賃はその界隈でとびきりの格安で、壁は薄いし窓もガタついているのですが、大家さんの管理と掃除が行き届いているので、相当に古びた建物であるにもかかわらず、気持ちよくこざっぱりしているのが気に入っていました。

 ただし、駅からはかなり遠く、少し汗ばむくらいの急ぎ足で歩いて、ゆうに十五分はかかります。これが災いして、隣の空き部屋は、なかなかあたらしい居住者を迎えられませんでした──。

 大学の食堂で働いているというけれど、どんな人なのか? 男か女か、若い人かそれとも、けっこう歳をとっている?

 いずれも考えられました。大家さんに訊けばいいのでしょうが、なんとなく隣人をあれこれ詮索するのは行儀が悪いのではないかとマキは躊躇したのです。

 マキはおおよそ朝の十時ごろに目を覚まします。その時間に布団の中で耳を澄ましても、隣の部屋からは何も聞こえてきません。

 マキの部屋は二階の端にあり、もし、何かしら声や音が聞こえてくれば、それは隣人によるものと考えてまず間違いありません。

「朝は早い」と──それが憶測であるとしても──大家さんがそう云っていたのだから、もう仕事へ出かけてしまったのだろう。

 マキは天井のしみを眺めながらぼんやりと過ごしました。働いているときは、こうした何の予定もない自由な生活を夢見ていたのに、いざ、そうした身の上になってみると、

「今日は何をしよう」

 という自分のつぶやきを、それ以上、展開できませんでした。

「お腹すいたなぁ」

 切実なため息は空腹に関わることばかりです。とはいえ、マキは食事に対してまったく無頓着で、何が食べたいとか、何を食べようといった食に対する積極性が欠如していました。

 空腹ではあるけれど、食べるものは何でもかまわない。カップ麺があれば、それで充分だし、コンビニで適当に買ってきた菓子パンやおにぎりを何の考えもなしに食べていました。



 異変が起きたのはある夜のことです。

 午後八時くらいのことだったでしょうか。マキは昼の時間に外へ出かけ、公園の池のまわりを何周もしたり、図書館で本の背表紙を眺めたりして部屋に帰ってくると、ちょうど八時くらいに猛烈な睡魔に襲われて死んだように眠ってしまうのです。この一週間ほど、それが習慣になっていました。

 しかし、その日は天気が悪かったので公園にも図書館にも出かけることはなく、一日中、家でぼんやりと過ごしていました。

 ふと気づくと夜の八時になっていて、時計を見て時刻を確かめたのは隣の部屋からあきらかに人の気配が感じられ、台所の流しの水の音が聞こえてきたからです。

 マキは布団の中で息をひそめました。

 あくまで想像ですが、隣の人は少し前に帰ってきて、服を着替えて台所に立ち、食事の準備をしている。やかんを火にかける音や、陶器と陶器の触れ合う音、ナイフやフォークがたてるかすかな金属音、さらには、ガラスボウルの中で何かをかき混ぜる音が聞こえてきました。

 料理をしている──とマキは確信しました。マキ自身はこの部屋で料理らしい料理をしたことがありません。実家に住んでいたころ、母親が台所で料理をしている音を聞くともなく聞いていたのがよみがえりました。

 マキはまな板を持っていません。包丁もパン切りナイフで済ませ、かろうじて食器はひと揃いありましたが、鍋やフライパンの類は持ってはいても棚の奥にしまい込んだきりでした。

「料理か」とマキは布団から起き上がりました。

 どうしたことでしょう。いくら壁が薄いとはいえ、壁越しに聞こえてくるのはいかにも不明瞭な音で、にもかかわらず、その音は何か心地の良い音楽のようにリズミカルに響きました。

 そういえば、マキの友人でレストランのシェフをしているNさんが云っていました。

「料理はリズムが命なんだよ」

 どうしたことか、その快いリズムに刺激され、マキは眠気に誘われることなく、むしろ覚醒して、なおも耳を澄ましました。フライパンがコンロの上に置かれた音がします。次に──そんな音は聞こえないのですが──フライパンに油が引かれたのがわかりました。

 そしてついに、じゅっ、と決定的な音が聞こえ、それは壁越しに響いただけではなく、窓の方からも聞こえてきました。

 マキは息を殺し、にじり寄るようにして窓辺まで行き、できるかぎり耳に意識を集めました。

 すると、たてつけの悪い窓のほんの数ミリほどの隙間から、甘い香りをともなった何かが焼ける匂いがマキの鼻孔まで届きました。おそらく、隣人の窓も事情は同じで、隣の隙間から漏れ出た匂いが、こちらの隙間に入り込んでマキの鼻まで届いているのです。

 マキは音と匂いから、それが卵焼きの焼ける匂いであると察知しました。と同時に、自分はいったい卵焼きというものをいつ以来食べていないかと振り返り、急に居ても立っても居られないおかしな衝動に駆られたのです。

「卵焼きをつくりたい」

 小さな声ではありましたが、マキは心からそう思いました。この期におよんでも「食べたい」ではなく、「つくりたい」とつぶやいたのがマキらしいところです。

 しかし、マキには満足な道具も材料もないのです。彼女はその夜、コンビニの袋の底にのこっていたメロンパンを味気ない思いで食し、もどかしい夜を明かすと、世の中が動き出すのを待って街へ繰り出しました。

 まずは足りない調理道具を買い込み、書店でさまざまな料理のつくり方が載ったレシピ集を何冊かもとめ、最後にスーパーマーケットに寄って、卵焼きに必要な材料を揃えました。匂いの印象からしておそらく甘い卵焼きに違いありませんでしたので、上等な砂糖と醤油を買うことも忘れませんでした。

 マキは、今日がこれまでの人生でいちばん時間が流れるのが早いと感じました。これまでそんなことを考えたこともなかったのですが、人は夢中になると時間が足りなくなるということを身をもって知ったのです。

 部屋に戻ると、レシピを暗誦できるまでじっくり読み、それから手順にしたがって、つくり始めました。

 ボウルにといた卵をフライパンに流し入れると、じゅっ、という音がして、昨日とそっくり同じ匂いがたちのぼりました。

 その嬉しさを何にたとえたらいいでしょう。自分のような漫然と日々を送っていた者が、たったこれだけの道具と材料を揃えるだけで、あの美味しい卵焼きをつくれる──。

 実際、驚くほど簡単につくれました。

 敷きっぱなしだった布団をたたみ、ひさしぶりにちゃぶ台を出してくると、マキはその上に白い皿に盛った卵焼きをのせて、右から左から眺めました。自分が焼いたなんて信じられません。

 しかも、本当に美味しかったのです。

 それはそれは、ごちそうでした。