「小栗チーズ工房」のウォッシュチーズ|北海道チーズ見聞録

今、国産チーズのクオリティの高さを牽引しているのは何と言っても北海道に数あるチーズ工房。東京・清澄白河の北海道産ナチュラルチーズ専門店「チーズのこえ」代表・今野徹さんが、北海道の工房を訪ね、チーズの美味しさの秘密に迫ります。

「小栗チーズ工房」のウォッシュチーズ|北海道チーズ見聞録
小栗牧場チーズ工房がつくる「ウメ」。穏やかなチーズの表情から、作り手の人柄が伝わる | 食楽web

どこまでも広がる牧草地の恩恵をいただく。

「いらっしゃい。迷っているのかと心配しちゃったわ」と出迎えてくれたのは、「小栗チーズ工房」代表・小栗美笑子さんと隆さんご夫婦。
 小高い丘が連なる緑豊かな牧草地を横目に走ると、チーズ工房兼ご自宅が見えてくる。北海道・道南の拠点函館市と、室蘭市のちょうど真ん中に位置する八雲町に、小栗チーズ工房はある。

 小栗チーズ工房のチーズは、放牧酪農で育った小栗牧場の新鮮なミルクを使い、美笑子さんがひとつずつ丁寧に手作りする。セミハード「ペレ」、フレッシュ「モッツァレラ」、パスタフィラータ「ヤクモ」と、優しくミルキーな味わいのチーズが揃う。珍しい一品としては梅酒で外皮を洗いながら熟成させたウォッシュ「ウメ」。「庭の梅から作る梅酒でウォッシュしたらどうなるかしら」という美笑子さんの好奇心から生まれたもの。「果実酒用ブランデーで作った梅酒でウォッシュしたものが、コクと風味が一番美味しかった」と、約3年の試行錯誤の末に完成。自分で納得いくもの、自分が美味しいと思うチーズ作りを一番大切にしている。

幸せそうに牧草を食む小栗牧場の牛たち。人が近づいても全く動じないのは、経営主との関係性を反映している
幸せそうに牧草を食む小栗牧場の牛たち。人が近づいても全く動じないのは、経営主との関係性を反映している

牛たちの異変に、酪農家としての生き方を見つめ直す

 今でこそ放牧酪農を営む小栗牧場だが、以前は配合飼料に依存する飼育をしていた。配合飼料とは主にとうもろこし、大麦、小麦などを2種類以上混合調整した飼料。1970年代半ばからアメリカから輸入された配合飼料は、与えれば与えるほど搾乳量が増えることから導入量が増加していった。搾乳量は著しく増え、配合飼料依存に拍車がかかっていく。

 一方、小栗牧場では異変が見られるようになる。朝、牛舎に行くと牛が突然死していたり、分娩に伴う病気も増えていった。牛のエサやりから排泄の世話、病気になったときの対処や獣医への対応、牧草の刈り入れ、すべて人間が担った。朝から晩まで時間に追われ働き詰め。隆さんも家族も疲れ切っていた。美笑子さんは、ふと、「牛が病気になったり、死ぬのが酪農なの?」と素朴な疑問を投げかける。隆さんはその言葉に立ち止まり、酪農家としての生き方を考えはじめる。そんなとき、1冊の本に出会う。地域の風土により添った酪農を提唱している中標津の三友盛行さんの放牧酪農について書かれた本「マイペース酪農のすすめ」。読み終わった隆さんは、すぐさま自分の目で確かめるべく中標津へ飛行機で向かった。

 中標津で目にした光景に、隆さんは驚かされた。
「当時、俺たちはお客さん来ても早く帰ってほしいって思うのよ。忙しいからね。でも、中標津では家族みんなで出迎えてくれた。奥さんたちは笑顔だし、それも手作りのチーズやパンを出してくれる。男は見栄はりで人前だと良いことばかり言うけど、奥さんが笑顔でいられる仕事っていうのは本物だなって思った。俺が今までやってきたのは、一体なんだったの?って思ったよ」

 隆さんは配合飼料多給から放牧酪農に切り替える決断をする。放牧酪農への転換は6年の歳月がかかると言われたが、特に苦労したのは始めてからの3年間だった。まずは牧草地に電気柵をはり、牛舎につないでいた牛の綱を解いていく。しかし、そんな隆さんの思いとは裏腹に、牛たちは歩いてくれなかった。いや、歩けなかったのだ。「ずっと牛舎につながれていたから、牛は歩き方を忘れちゃっていたの。歩いてもヨタヨタって足腰がついてこない。草も食べない。だって、青草を食べたことがないから。どの草が食べられるか、わからないのよ」と美笑子さんは話す。

 そもそも牛は草を食べ、四つの胃で反芻しながら消化吸収し、体内でたんぱく質の栄養素を造り出す体内構造をしている。本来は配合飼料ではなく、青草こそ牛にとっての食べ物といえるだろう。

 隆さんは放牧をするようになり牧草地への化学肥料も一切やめた。すると牧草に適した種類の草がバランスよく生えはじめる。窒素過多に傾いた土壌のバランスを整えてくれるマメ科のクローバーも多くなり、牧草地の質が良くなっていく。そのうち、牛が自ら青草を食むようになっていった。

自然に寄り添い牛と共に、そして未来へ

経営主の小栗隆さんとチーズづくりを担当する小栗美笑子さん。いつもニコニコされている美笑子さんだが、酪農の未来を語るときの真っ直ぐな視線に、思わず背筋が伸びる
経営主の小栗隆さんとチーズづくりを担当する小栗美笑子さん。いつもニコニコされている美笑子さんだが、酪農の未来を語るときの真っ直ぐな視線に、思わず背筋が伸びる

 放牧に切り替えたことで、暮らしのあり方が大きく変わっていく。以前は牛の世話で常に時間に追われ、他のことに心を寄せる余裕など持ちようがなかった。家族でゆっくりと過ごす時間も、もちろんない。

 今では朝夕に牛舎で搾乳をしてから、牧草地に牛を放す昼夜放牧。放している間の時間は人の手を必要としない。放牧になってからというもの、人の心にも余裕が生まれる。牛は草を食み、糞尿は肥料となり、豊かな牧草地が育まれる。放牧酪農から描き出された景色は牛が牛らしく、人が人らしく生きる姿。配合飼料依存の消費型から、自然循環型の暮らしが形作られていった。

「放牧でなかったら今のチーズも生まれてなかったわ」と美笑子さん。チーズの美味しさの秘訣の牧草を大切にする思いは、チーズの名前からも読み取ることができる。セミハード「ペレ」は、牧草の女王と言われる「ペレニアルライグス」から名付けたもの。
 四季によってミルクの特性も変わる。牧草が生える春夏の牛乳は黄色味がかり、力強い「ミルクの力」を感じると言う。季節によって味や風味も変わるため、その季節に合わせたチーズ作りをしている。

 隆さんが、ふと時計を見上げた。「お、16時だ。そろそろ牛たちをお迎えにいこうかね」。ゆっくりと椅子から立ち上がる。陽は傾きかけていた。美笑子さんが話していたように牛たちはゆっくり歩き始めていた。「牛ってね、本当に利口なのよ」と、美笑子さんはにこやかに、風が駆け抜ける牧草地に目をやった。

◎チーズ豆知識

ウォッシュチーズ
熟成過程で外皮を塩水やその土地の蒸留酒などで何度も洗うことで、表面を雑菌から守りながら、有効な菌を繁殖させ、熟成を深めていくタイプのチーズ。表面は湿っていて、熟成が進むと表皮はリネンス菌の濃いオレンジ色に変化していく。種類によって異なるが、外側は独特の香りが強く、中は強いクセがあるもの、濃厚でクリーミーなものなどさまざま。クミンシードなどのハーブ、蜂蜜、ジャガイモ、ライ麦パンなどとの組み合わせや、加熱して肉料理やパスタとともに楽しもう。

●著者プロフィール

今野徹

帯広畜産大学院を修了後、北海道庁、農林水産省を経て、2015年「100年続くものづくり、1000年続く地域づくりをともに考える」ため「株式会社FOOD VOICE」を設立。同年11月、清澄白河に日本で初めてとなる北海道産ナチュラルチーズ専門店「北海道ナチュラルチーズコンシェルジュ チーズのこえ」をオープン。単なる「チーズ屋」ではなく、チーズを通じて、作り手、牛、大地の「こえ」を届けるとともに、食べることと世界へのつながりのきっかけづくりを幅広く企画、問題提起する「場所」づくりに奔走している。